聖霊と共に

1999年03月07日

ローマ人への手紙8章
神の霊
キリストの霊
真理の霊
聖霊に歩む


ローマ人への手紙8章

今日は聖霊について学びたいと思います。いつものようにまず聖書を開いて下さい。ローマ人への手紙8章9節から16節までと26節から27節までを読みます。

神の霊があなたたちの内に宿っているなら、あなたたちは肉にいるのでなく霊にいます。しかしキリストの霊を持たなければ、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたたちの内に留まるなら、体は罪のゆえに死んでも霊は義のゆえに生きます。もし、イエスを死人の中からよみがえらせた方の霊があなたたちの内に宿っているなら、その方はあなたたちの死ぬべき体をも、よみがえらせて下さるでしょう。

ですから、兄弟姉妹の皆さん、わたしたちは霊に従って生きる責任があります。この責任は肉に対してではありません。もし肉によって生きるなら、あなたちは死ぬでしょう。しかし霊によって体の働きを殺すなら、あなたたちは生きるでしょう。すべて神の霊に導かれる者は神の子です。あなたたちは、恐れを再び抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、神の子の霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのです。そして、この御霊(みたま)自身がわたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることを証するのです。
・・・
御霊もまた同じように、弱い私たちを助けます。私たちはどう祈ったらよいのか知りませんが、御霊自らが言葉に表せないうめきをもってとりなしをします。人の心を知る方は御霊の思いが何であるかを知っています。御霊が神の御心にしたがって、聖なる者のためにとりなしをするからです。

ここでパウロが神の霊、キリストの霊、神の子の霊または御霊と呼んでいるのは、すべて聖霊の別名です。そして聖霊はその現れ方によって、ある時はいのちの霊、真理の霊、助け主、なぐさめ主とも呼ばれています。こうした聖霊の別名はその働きの特ちょうを現しています。今日は私たちに対する聖霊のこうした様々な働きを学んで、聖霊と共に歩むことの大切さを再確認したいと思います。

神の霊

聖霊はまず第一に神の霊です。私たちキリスト者が神の霊を聖霊と呼ぶのは、神が何よりも聖なる方であり、その聖(きよ)さによってまず最初に私たちの罪のけがれを照らし出すからです。つまり聖霊の最初の働きは私たちに罪の自覚を呼び起こすことです。イザヤが神の霊に接して、最初に自覚したことは自分の汚れでありましたイザヤ 6:5-6。「聖なる、聖なる、聖なる」方に罪ある自分は近づくとは出来ないとの意識でありました。これに対して聖霊はその火をもってイザヤの口をきよめて、よみがえらせ、神の言葉を告げる預言者として彼を立てました。

聖霊は人の霊をよみがえらせます。罪と汚れの肉に死んで、義と聖さの霊に生きるものとします。ですから聖霊はいのちの霊であり、よみがえりの霊ですヨハネ 5:17。人は聖霊を受けることによって新たに生まれ変わります。この新生は人の価値を180度転換します。今まで大切に思ってきたものが無価値になり、反対におろかに見えたものが真に価値あるものとしてよみがえりますガラテヤ 4:12。それは人の生きる目的を正反対にします。それまで自分のために生きていたのが、今は自分に死んで神のために生きるようになります。それまで人の上に立とうと思っていたのが、今は人に仕えようと思うようになります。それは目からうろこが落ちる回心の体験です。それまで聞いてきたのですが聞こえず、見てきたのですが見えず、知ってはいたのですが悟れなかったものが、今ははっきり聞こえ、よく見え、明らかに悟ることが出来るようになります。パウロはキリスト者を迫害してシリアのダマスコに向かう途中キリストに出会い、地に倒れて目が見えなくなりました。しかし聖霊のバプテスマを受けると「目からうろこ」が落ち、見えるようになりました使徒 9:18。バプテスマ(洗礼)とは何ですか。それは聖霊を受けて生まれ変わることに他なりません。人間が施す水のバプテスマは何の力もありませんが、神が与える聖霊のバプテスマは人を本当によみがえらせます。

キリストの霊

第二に聖霊はキリストの霊です。聖霊はキリストの十字架によって人の罪を赦し、その罪をあがないます。聖霊は人にこの罪からの解放を告げ、その赦しの喜びを与えます。聖霊はキリストの福音の使者です、力です。聖霊によって私たちは罪の赦しを得、心の平安を喜び、賛美の声を上げます。そしてキリストの霊を受けた者はキリストのように人の罪を赦し、その十字架を負うようになります。キリストの霊は、とりなしの霊であり、ぎせいの霊だからです。ステパノはキリストを証してユダヤ人に殺されましたが、その殉教(じゅんきょう)のさなかに自分を石打ちするユダヤ人の罪の赦しをキリストにとりなし、祈りました使徒 7:60。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさいマタイ 5:44とはキリストの精神、心です。そして霊は精神であり、心です。キリストの霊を宿した者はキリストの精神に歩み、キリストの心に生きます。

キリストの霊はまた神の子の霊です。神を父と呼ぶ子の身分を授ける霊です。聖霊によって私たちは天の父になんでも祈ることが出来、なんでも求めることが出来るようになります。父に信頼し、父の命令に素直に従い、父の与えるいのちのかてを日々食べて生きるようになります。そして父が子に授ける最大の恵みは聖霊であり、私たち子が最も切に父に求めるものも聖霊ですルカ 11:13

キリストの霊は救いの霊であり、助けの霊であり、なぐさめの霊です(ヨハネ14:26)。聖霊は私たちを罪の亡びから救いだし、あらゆる苦難から助け出します。そして聖霊は私たちの苦しみを共に苦しみ、私たちの喜びを共に喜び、生きる希望と力を与えるなぐさめ主です。私たちは聖霊によって苦難をも喜びます。「なぜなら苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生みだし、練達は希望を生み出し、そして希望は失望におわることがない」ことを聖霊によって知っているからですローマ 5: 3-4。キリストの霊は人の霊を柔和にします、謙そんにします、あわれみ深くします。聖霊によって人は心にキリストの愛を宿します。すべてのことをこの愛を目的とし、この愛に動かされて行うようになります。なぜならキリストの霊は愛であり、キリストは聖霊によって私たちに神の愛を注ぐからですローマ 5: 5

真理の霊

第三に聖霊は真理の霊ですヨハネ 14:17。聖霊は真理を教え、それを解らせる霊です。神を何か神秘的なもの、わけの解らないものとして私たちは盲目的に信じるのではありません。神の真理は子供にでも解ります。いや、幼子のようにならなければ解らない真理ですマタイ 18: 3。聖霊は私たちに聖書が真理を証していること教えます。聖霊によらなければ聖書を真に理解することは出来ません。

聖霊は人格であり、真理は真実です。ですから、聖霊の教える真理は何よりも人格的真実です。聖霊によって私たちは、神に対して真実な信仰、人に対して誠実な態度を持たされます。宗教的真理とは何ですか。それは神に対する真実な人格的関係のことです。道徳的真理とは何ですか。それは人に対する誠実な人格的関係のことです。

真理の霊はさらに正気の霊です。気を失わせたり、我を忘れさせたりする霊ではありません。知性を鈍らせたり、感性をまひさせたりする霊ではありません。反対に真理の霊は私たちの理性を訓練して知的真理を啓発し、感性を純化して美的真理をも霊感します。聖霊によって私たちは神を畏れることが知識の始めであることを知り、神の創造物と真実の創作に感動します。こうして聖霊は私たちを救いの完成、人格の完成へと導きます。

聖霊によって、私たちは真理を愛するものとなり二テサロニケ 2:10、真実と正直を愛し、不真実と偽りを憎みます。真理の霊を心に宿した者は、偽りと不真実が支配するこの世のやみを照らしだす「世の光」となり、その腐敗を清める「地の塩」となりますマタイ 5:12。いや、そうならざるを得ません。真理の霊にに導かれる人生はこの世にあって不義、不真実、偽善と戦う、真理の戦いの歩みとならざるを得ません。戦うのは私たち自身ではなく、私たちの内に宿っている真理の霊です。「真理は真理自ら真理のために戦います」矢内原忠雄。私たちはただ真理に従えさえすればよいのです。真理に従えば力があり、真理に背けば無力です2コリント 13: 8

聖霊に歩む

それでは、こうした聖霊の働きが私たちに現れることを何によって知ることが出来ましょうか。木はその実によって知られます。善い木は善い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。聖霊の働きもその実によって知ることが出来ます。私たちの歩みが「愛、喜び、平和、忍耐、寛容、善意、信頼、謙遜、自制」ガラテヤ 5:22の実を結ぶとき、聖霊が共に歩んだことを知ります。しかし私たちが、不品行、かんいん、汚れ、偶像崇拝、占い、憎しみ、争い、不平、怒り、ねたみ、殺人、酒酔い、盗み、むさぼり、偽善、その他あらゆる悪ガラテヤ 5:19-21を行うとき、私たちは肉の欲を満たしており、聖霊は私たちから離れていることを知ります。私たちが罪を犯すのは聖霊が共にいないからなのです。ですから罪の誘惑に陥らないようにわたしたちは常に聖霊を神に求め、聖霊と共に歩んで信仰の戦いを戦い抜かなければなりません。

それでは聖霊を受けるためには、どうすればよいのでしょうか。まず祈りなさい、次ぎに聖書を学びなさい、そして神の戒めを守りなさい、と内村鑑三は言います(「如何にして聖霊を受けん乎」1908/10)。聖霊は子の信仰と祈りに応じて父が与える最大のたまものです(内村鑑三、ガラテヤ書の研究、「信仰と聖霊」1925/1)。だから、

聖霊を求めなさい、そうすれば与えられるでしょう。この世の肉の父でさえパンを求める自分の子供に石を与えることがあるでしょうか。ましてや天の父は、求めるあなたたちに聖霊を与えないことがあるでしょうかルカ 11: 9-13 参照

ただ私たち肉につけるものは一度に聖霊の全部を受けることはできません。神は時に応じて「初めに芽、次ぎに穂、それから実り」の聖霊を注ぎますマルコ4:28。聖霊は「教えに教え、教えに教え、一つ一つ、一つ一つ、ここにも少し、そこにも少し」と私たちを真理に導きますイザヤ28:10。そして聖書の学びは聖霊の恩恵を確認させることによって、その働きを長く私たちに残します矢内原忠雄。ただし祈り学んだだけでは聖霊は与えられません、聖霊は「勇気と決心をもって神の命令を実行して豊かに与えられる」ものなのです(内村鑑三)。もちろん内面的な順序は最初に「私は私の霊をあなたたちの内におき、あなたたちを私の定めに歩ませ、私の法を守り行わせます」エゼキエル36:27。しかし実践的には神の戒めを守ることによってはじめて聖霊の注ぎを確認できるのです。以上聖霊に歩むことの大切さを学びました。


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