1 月 1 0 日
彼は自分の霊(たましい)の苦しみを見て、それに満足します。

イザヤ 53:11

病床聖句

 エホバのしもべは自分の生命が民の罪をあがなうための供え物として出され、その効果が神に喜ばれるのを見るならば、自分の受けた霊(たましい)の苦痛を感謝・満足の思いに満たされて味わうでしょう。

 私の肉体の痛みと精神の打撃とは、もとより人の罪をあがなう力はありません。それができるのは、ただキリストの十字架だけです。しかし私が苦しみを受けることによって、いくらかでも人の信仰が増し、人の霊(たましい)の生命が養われたことを知れば、私もまた苦痛を喜び、心満ち足る思いがわいてきます。パウロはその思いを、「私は自分の血をそそぐ事があっても喜びます、あなたたちすべてと共に喜びます」(ピリピ 2:17)と言ったのでしょう。 ・・・ 

 人は激しい病苦に投げ込まれれば、だれでも自己の罪を強く意識し、肉体の痛みの中から神のゆるしを叫び求めます。私もその例外ではありませんでした。「私は悪のうちに生まれ、罪のうちに母は私をはらみました」(詩篇 51: 5)とダビデは言っています。生まれ落ちてからの私の心のよこしまは私の目の前にあり、私のそしりの言葉は毒矢のようです。私は天涯孤独(てんがいこどく)、私の罪を抱いて激しい肉体の痛みの中にひとり泣き叫びます。

 その時、「キリスト・イエスにある人は罪に定められるこがありません」、という天来の声を私は霊(たましい)に聞きます。私はキリストの十字架を仰いで、初めて生きる望みを与えられるのです。



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