エルサレムの町を行き巡り、見て、知りなさい。その広場をたずねて、公義を行い真実を求める人が一人でもいるか捜しなさい。いれば、私はエルサレムをゆるします。悲哀
一人はさみしいです。
しかしそれは自分が他人に認められないからという、利己的なさもしい理由からではありません。人の認めない真理を自分一人だけ見抜いているからです。人が真理を認めないのを見て、私は怒り憤ります。しかし人に向かっての憤りは空しく、その反響(はんきょう)は自分に返ります。自分に帰って、真理のかたわらに立つ人がただ私一人なのを見るとき、そこに無限の悲哀を禁じえないのです。真理はすべての人に仰がれるべきものにかかわらず、常に少数の人にしか認められません。真理そのものにこの悲哀性があります。現世における限り、悲哀は真理の属性です。従って、真理を知る少数者も、自ら悲哀をその性格とする者とならざるを得ません。