2 月 1 6 日
「どうして私はこの子たちを得たのでしょう。私は子を失い囚われ、また追い出されていたのに、だれがこの子たちを育てたのでしょう。私がただ一人取り残されていた時この子たちはどこにいたのでしょう」。

イザヤ 49:21

子供の死

 ヨブはその子を失った時、「エホバは与え、エホバは取られます。エホバの聖名はほむべきです」、と言いました。

 エホバのなされるところはすべて正しく、すべて善いのです。だれもこれに対して抗弁することは出来ません。信じてこれを受ければ、すべての事が感謝になります。ただ私たちの悲哀が全き賛美と転化するためには、私たち自身の信仰の訓練が必要です。私たちの信仰の進歩に伴って、失った子についての思いは限りなき嘆き悲しみから、完き賛美へと移って行きます。それはついに復活のあした、神の御前において完成されるべき信仰生活の過程です。

 世に子を失った家庭はあまりにも多いです。財を天に積んだ人のように、子を天国に送った親たちの心が天に向けられるならば幸福です。星が旅人をみちびくように、天にある愛児のほほえみによって地上の旅路を信仰によって歩む人は幸福です。私たち自身の信仰生活の歩みが、すべてを解決する鍵なのです。



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