2 月 2 5 日
だれでも父、母、子、兄弟、姉妹さらには自分の命までも捨てて、私にしたがって来るのでなければ私の弟子となることはできません。また自分の十字架を負って私についてくるのでなければ、私の弟子となることはできません。

ルカ 14:26-27

十字架を負う

 自分を捨てる人は自分に「さよなら」した人です。生活の目標が自己でなくなって、神のことが目標となった人です。このような歩み方をする人の人生が必然的に十字架を負わされる道であるのは、世間の歩み方がちょうど反対に神のことを思わず、人のことを思うからです。実に悲劇的な食い違いです。しかしその十字架を自分から求めて背負いなさい、と言うのではありません。それではやはり「自分」です。真実な人生を歩んでいれば、十字架は他人から負わされるのです。ただそれを負わされた時、いやと言わないで負ってゆかなければなりません。「もし人が私に従って来るなら、どうしても十字架を負わされますから、各自の十字架を黙って背負ってついて来なさい」とイエスは教えられたのです。

 これは全くの親不知子不知(おやしらずこしらず)の関門であります。親は子を知らず、子は親を知らず、各自が自分の十字架を負って一人ずつ越えなければならない狭い道です。ふところに手を入れたり、他人に背負われたりしては絶対に通過ができない、神の国に入るための難所です。



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