5 月 1 0 日
不信仰のゆえにユダヤ人たちは切り捨てられ、信仰のゆえにあなた方は立っているのです。高ぶった思いを抱かず、かえって畏れなさい。もし神が元の木の枝を惜しまないならば、ましてあなた方を惜しむ事はないでしょう。神のあわれみときびしさとを見なさい。神のきびしさは倒れた人に向けられ、神のあわれみは、もしあなたたちがそのあわれみに留まるならば、あなたたちに向けられるのです。

ローマ 11:20-22

預定と自由意志

 神の預定は機械的宿命論ではありません。それは生きた神の事業計画です。 ・・・ 生きた人格を立てかつ運営する計画にあっては、原則的な根本の趣旨(しゅし)、目的はむろん変わりませんけれども、部分的なる模様替えや順序の変更は可能です。神は自由な人格ですから、自由に働かれる神が御意に従って神の国に個人を召される時、人が自由意志を以てこれに応ずればその人は神の国の民に加えられます。これに反し人が自由意志によってこれを拒めば、その人の救いは延期され、神は代わりに他の個人を選んで神の国に召されるでしょう。また人が一度びキリストを信じた後、その自由意志によって信仰を捨てる時は、神はその人を神の国より除籍されます。しかし悔い改めて信仰に復帰すれば、神は彼を再び神の国に加えられるでしょう。 ・・・ 神の預定は生きた人格としての神の経綸(けいりん)であり、人は生きた人格としてその経綸の中に織り込まれます。こうして神の預定と人の自由意志とが美妙なハーモニーを奏しているのです。



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