「イエス・キリストは罪人を救うためにこの世に来ました」、という言葉は真実でそのまま受け入れられるものです。私こそがその罪人のかしらだからです。罪人のかしら
パウロが、「罪人の中で私はかしらです」と言った時、彼は自分について何を実感したのでしょうか。彼がキリストを信じる以前においてその道の迫害者であったことを思い起して、「私は罪人のかしらです」と自覚したのでしょうか。それならば「罪人のかしらでした」と言いそうなものです。
パウロの自覚は、むしろ現在彼が罪人のかしらであるとの告白です。彼は何か人に言えない隠れた罪をもっていたのでしょうか。あるいは何か自分ではどうにもならない性格的な弱点があったのでしょうか。私の欲する善はこれを行わず、かえって欲しないところの悪を行こなうという頑固な法則が彼の中にあって、何度もその失敗を繰り返したのでしょうか。
いづれにしてもパウロは自己の中にある罪を持て余して、何度も神の前に、又しばしば人の前に、自分のはずかしめを意識したのでしょう。そのことが彼自身に耐え難くて、彼は自分を「罪人のかしら」と自覚したのでしょう。
あわれむべきパウロです。しかしながら彼はこの自覚を機会として常にキリストの十字架に駆け込み、一層キリストの十字架の救いを仰いだのでしょう。これがあることによって彼の信仰が形式的概念として固定せず、常に幼児のような新鮮な生命をもっていたのでしょう。