空の鳥を見なさい。まく事も、刈る事も、倉に収める事もしないのに、天の父は鳥たちを養います。あなたたちは鳥よりもはるかに優れた生命ではありませんか。だれが思いわずらいによって、自分の寿命をすこしでも延ばす事ができますか。また、なぜ着物の事で心配しますか。野の花がどうして成長するか考えて見なさい。労する事も、紡ぐ事もしません、しかし私は言います、栄華(えいが)をきわめた時のソロモンでさえこの花の一つほども着飾ってはいませんでした。今日は咲き、明日は火に投げ入れられる野の草でさえ神はこのように装って下さるのなら、ましてあなたたちをそれ以上に装って下さらないはずがあるでしょうか。ああ、信仰のうすい人たちよ、それだから何を食べ、何を飲み、あるいは何を着ようかと言って思いわずらってはいけません。空の鳥、野の花
明日を思いわずらう事は生活の貧しさという、きめて現実的な問題です。しかしイエスはそれを周囲の美しい自然の中に融合(ゆうごう)させて、田園(でんえん)詩のように語ります。言葉を聞いていれば、私たちは生活問題の思いわずらいから解放されて、空の鳥の声に耳をすませ、野の草花に目を休ませ、心は神の国の生命に満ち足ります。思いわずらいと取り越し苦労、不平としっと、あせりと絶望に囚(とら)われた心は、空にスズメが鳴いても聞こえず、野にレンゲが咲いても見えず、天に父なる神がいても知りません。この捕囚(ほしゅう)より解き放して、霊の自由と平安とを貧しい人に与えられたのがこの言葉です。これは教訓であってしかも教訓以上です。これは詩です。生命です。イエス御自身がそのような貧しい人の一人であられたゆえに、貧しい人に対する彼の同情と愛とが、詩となってあふれたのです。