バプテスマのヨハネは罪の赦しを得させる前の悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。預言者イザヤは語っています、「荒野で呼ばわる人の声がします。主の道を準備しなさい、その道をまっすぐにしなさい」。律法と福音
キリストの体であるエクレシアが先ず律法の下に規律を受ける事は、適切な自然の順序です。イエスが、「私は律法と預言をこわすために来たのではありません。かえってそれらを実現するために来たのです」(マタイ 5:17)と言い、パウロが、「律法は罪ですか、決してそうではありません、律法がなければ私たちは罪を知りません」(ローマ 7: 7)と言ったように、律法は福音に道を準備し、福音は律法を成就(じょうじゅ)したのです。律法すなわち道徳律によって訓練と規律を与えられる事により、信者のエクレシアは子羊の新婦としてふさわしい準備を与えられるのであり、それがなくては信仰は地についたものとならず、いや、信仰の喜びを知る事さえ出来ません。律法の下に立って自分の罪を知った人でなければ、罪のゆるしの福音を喜ぶ事が出来ないのです。