8 月 4 日
主よ、私たちの罪が私たちを訴え、証言をしても、あなたの名のために事を成しとげてください。私たちのそむきは大きく、あなたに対して罪を犯しました。イスラエルの希望の主よ、苦難の時の救い主よ、なぜあなたは私をこの地で異邦人のようにさまよう旅人のようにするのですか。

エレミヤ 14: 7-8

預言者の運命

 真理を口にする人には特別の悲哀があります。自ら真理に値しない小さな汚れた身でありながら、神とか真理とかいう偉い名において発言しなければならない事から生ずる矛盾がその第一です。真理の名において告げるところが受け容れられず、実行可能性のほとんど無い事が解っている事を述べなければならないのがその第二です。もしそれが罪人の救われた恩恵の証明だけの事であれば、自分に相応しい事です。しかしながら自分自身の罪人である事を熟知している者が、真理の名において審判を述べなければならないとは、ああ何という矛盾でしょうか。罪人の身でありながら、神の側に立つ人として召されたのがすなわち預言者であり、彼の立場に対して誠に同情に耐えないものがあります。預言者はある時には神の側に立って国民の罪を責め、またある時には国民を代表する人として罪の赦しを神に請い求めます。国民の一人としては神から打たれ、神の使者としては国民から嫌われます。これが預言者の運命です。だれか神に召されずして、自ら進んでこのような地位に立つ人があるでしょうか。



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