ああ、おろか者のガラテヤの皆さん。十字架にかけられたイエス・キリストがあなたたちの目の前に置かれたではありませんか。それなのに一体、だれがあなたたちを真理に従わないよう惑わしたのですか。私は、ただこの事を問います、あなたたちが御霊(みたま)を受けたのは律法を行ったからですか、それとも聞いて信じたからですか。事実と取り組む
主観でなく客観に、自意識でなく神に、論理でなく事実に、自己を掘り下げる事でなくキリストを仰ぐ事の中に始めて自己の発見もあり、世界の発見もあり、確信ある生活態度も出来るのです。「自意識」的な近代人の思索(しさく)は決して自己に忠実な道ではなく、かえって自己をわけの解らぬものにしてしまいます。その結果はわがままか虚無(きょむ)か何れかです。要するに無力です。
自己の主観に生きようとしないで、事実と取り組んで生きるところに人生の真実があります。いつも私の言うごとくキリストの十字架という事実を仰ぎ、これと取り組んで生きるところに始めて自己発見があり、人生の積極的な意味を知る事が出来るのです。