9 月 2 1 日
私たちは文字によらず生きている神の霊によって、石の板ではなく心の板に記されたものであるという、確信があります。こうした自信を私たちはキリストにより神にあって抱いています。もちろん自分自身に事を定める力があるというのでは決してありません。私たちの力は神からのものです。

第二コリント 3: 3-5

自信とごうまん

 何が正しい自信とごうまんとを区別するかと言えば、その目的でありましょう。つまり自分の利益をはかるために自己の才能を誇るときには、それがいかに小さな誇りであってもごうまんであり、その賜物(たまもの)を神からもらったのに、自分自身が自分の力で得たように思って、自分のものだから自分のために使うという考えに基づいたときには、少しの高ぶりもごうまんです。これに反して自分の才能は神から与えられたものだから神のために使い、自分のためには使わないという立場をとって行くときにはどんなに大きい自信をもっても、つまり世界全体がまちがっていて自分一人が正しいというような自信をもったとしても、それはごうまんでなく、謙そんであるのです。 ・・・ 神に対する関係において見たときに、自信とごうまんとの区別がわかるのです。



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