9 月 2 7 日
私は神に生きるため、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられたのです。生きているのはもはや私ではありません。キリストが私の中で生きているのです。私が今肉にあって生きている命は、私を愛し私のために自身を捧げられた神の子の信仰によるものなのです。

ガラテヤ 2:19-20

戦闘的と法悦的

 「キリストは私にあり、私はキリストにあります」とういことは、信仰の極致(きょくち)というべき霊交(れいこう)であって、「神秘主義」という名によって批評さるべきものではありません。問題は、この霊交の結果がいかなる方面に現れるかにあります。それが法悦三昧(ほうえつざんまい)のめい想にふけり、徹夜の祈とう会とそれに伴う異言となって現れるか、あるいは善を愛し悪と戦うところの日常生活における道徳的態度として現れるか、木はその果によって知られるとすれば、同じくキリストとの交わりと言っても、両者の間に重要な相異があると察されます。そうして私の教えられた信仰は、法悦的・神がかり的な境地に至る信仰ではなくて、道徳的・戦闘的生活態度を生むところの信仰です。



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