1 0 月 1 5 日
キリストに希望をもつ人は皆、彼が潔くあったように自らを潔めます。全て罪を犯す人は不義を行う人です。罪は不義です。ご存じのように、キリストは罪を取り除くために来たのです。彼には罪がないように、彼に在る人も罪を犯しません。 ・・・ 子たちよ、惑わされてはなりません、キリストとおなじように義を行う人が義人なのです。

(第一ヨハネ 3: 3-7)

潔めの過程

 聖霊を受けた後でも、残念ながら私たちは度々罪を犯します。それは私たちがなお肉に在って生きており、そして肉が弱いからです。しかし私たちがそのつど自己の罪を言い表すならば、神は御自身の義によって私たちの罪を赦し、すべての不義より私たちを潔めて下さるのです(第一ヨハネ 1: 9)。罪を犯さなくなったから、神の子となるのではありません。神の霊に導かれて歩む人となったから、神の子であるのです。導かれても、完全に歩むことはなかなか出来ません。導く霊は完全ですが、導かれる私たちの歩みは不完全極まります。しかし神に導かれていれば、それで神の子なのです。どんなに歩みの鈍い人でも、すべて神の子なのです。このように神の霊に導かれ、神と交わりつつ歩んでいれば、イエス・キリストの血がすべての罪から私たちを潔めてくれます。私たちの中に宿り、また私たちの上におおわれる神の霊の力により、いわば私たちの意識しない間に、私たちの聖潔(きよめ)は成就されて行くのです。



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