主は、手を伸べて私の口にふれて言いました、「見なさい、私は言葉をあなたの口に入れました。今日、私はあなたをすべての民とすべての国の上に立てます。あなたを通して、私は彼らをあるいは抜き、こわし、亡ぼし、倒し、あるいは建て、植えます」。私の自覚
私に明白な二つの自覚があります。
一つは、私は罪人であり、キリストの十字架の下に立たなければ生きて行けない人間であるということです。これは限りなく恥ずかしい自覚ですが、事実だから仕方がありません。この自覚は私をして世界のだれよりも謙そんに、だれよりも柔和ならせずには措きません。私が十分謙そんでなく柔和でないのは、この自覚が不徹底だからであり、その事自体が私の罪人であることの証拠です。
それにもかかわらず私にはこれと全く相反したような、もう一つの自覚があります。それは私は日本国の柱であり、私を倒す人は日本国を倒すものであるという自覚です。 ・・・
私は罪人の頭という自覚と、私は日本第一の大人という自覚とは、一見全然相反するもののようですが、私においては共に真実です。それはこの二つの自覚は、一つの底流の両端におけるわき出口に外ならないからです。それを結ぶ流れはキリストです。キリストに結ばれる時、私は自分の罪を知ります。しかしキリストによって私の罪を赦された時、私は日本第一の大人です、と自覚するのです。