1 2 月 1 7 日
私は自分の体を打ちたたいて服従させています。それは他の人に宣べ伝えておきながら自分が失格者になるかも知れないからです。

第一コリント 9:27

信仰の師

 自分が信じていないのに信仰を宣べ伝えるのは偽(いつわ)りですから、そのような伝道者が神の審判を受けるのは当然です。しかし伝道者だからといって、その信仰に少しの動揺もないとか、人生についての疑いを少しももたないとか、その日常生活の行為が完く清く正しいとかいうことはあり得ないことです。いや、伝道者は弱い人であればこそ一層キリストに依りたのんで、キリストから離れることが出来ず、キリストの愛の中に生きるのです。その伝道は、要するに自分の生きた信仰経験の告白です。伝道者自身はどんなに恥ずかしい人間であっても、その伝えるキリストの福音は尊いのです。伝道者は自分が行列の先頭に立ち、信者をひきいて天国に入るような意味で、信仰の師ではありません。伝道者は自分の伝えるキリストの福音の正しいことについては、絶対の自信を持っています。それは伝道者自身それによって救われ、それによって生きているからです。しかし伝道者はルカ福音書18章13節にある取税人のごとく、おのれ自身の罪のゆえに首をもあげることが出来ず、トボトボと行列の後尾からついて行くのでしょう。先生の伝えた「信仰」は重んじなければなりません。しかし、「先生」その人を崇拝してはならないのです。



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