1 2 月 2 6 日
自分を善人だ思う人は多くいます。しかし、だれが真実な人に出会うでしょうか。

しん言 20: 6

真実な信仰

 真実の乏しいことを嘆く人は、信仰によって神に救われます。人はキリストを信じる信仰によって救われるのであり、自己の真実の価値によって救われるのではありません。真実の欠けた人も、キリストの十字架のあがないを信じることによって、功績なくして救われます。

 しかし真実のこもらない信仰が、真の信仰でないこともまた明らかです。惰性的な信仰、形式的な信仰、名義的な信仰は、審判の座において人を救う力がなく、かえっておう吐を催すほどの偽善として、口から吐き出されるでしょう。

 信仰が生きて居なければならないということは、父なる神と救い主キリストとに対する人格的真実をもたなければならないということです。真実は人間相互の交際の根底ですが、人に対して真実の心をもたぬ人が、神とキリストとに対して真実な心を持つはずがありません。また、神とキリストとに対して真実な心、すなわち真実な信仰態度をもつ人は、人に対しても真実な心を持たされます。それは人格的結合の要素は「真実」であり、神とキリストとに対する関係も、また人間相互に対する関係も、人格的関係たることにおいては同一だからです。



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