神の愛と世の愛
今日、私が言いたいことは一言です。私たちは神とこの世とを共に愛することは出来ないと言うことです。一方を愛することは他方を疎んじ憎むことです。神とこの世とに兼ね仕えることは出来ません(マタイ 6:24)。二心は神の嫌うものです。神と世とどちらも愛そうと思うのは偽りです。このことを、まず初めに第一ヨハネ 2:15-17から学びたいと思います。聖書を開いて下さい。読みます。
この世とこの世のものを愛してはいけません。もしこの世を愛するならば、父の愛はその人の内にありません。すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活の誇りは父からのものでなく、この世からのものです。そしてこの世とこの世の欲とはすぎさります。しかし神の御心を行う人は永遠に生きます。
この世の肉の欲、目の欲、生活の誇りを愛する人に神の愛は存在しません。この世を愛する人とは自己の欲と情を満たすために生きている人です。財産、健康、知性、家庭、仕事、権力などのこの世の幸福を求める人です。そのような人は自分の個人的欲を満たすために他人を犠牲にすることを何とも思いません。食欲を満たすために他人のものを奪ったり、性欲を満たすために他人の人格を手段としたり、権力欲や地位欲を満たすために競争相手を殺したりあるいは押しのけたり、財産欲を満たすために他人の財産や権利を侵害します。これらの態度は自分を第一と考える自己中心主義者です。
これに反して、父を愛する人とは神の御旨を行う人のことです。神を愛する人まず第一に神の国と神の義を求めます(マタイ 6:33)。そのためにはまず自分の欲と情を十字架に付けてその肉を殺し、神の霊に歩まなければなりません(ガラテヤ 5:24)。自己の満足、幸せ、誇り、利益を捨てて、自分の十字架を負ってキリストに従う人とならなければなりません(マタイ 16:24)。神を愛する人は自分にサヨナラした人です、「もはや生きているのは自分でなく、内にいるキリストです」(ガラテヤ 2:20)との内的確信に歩む人です。ですから個人的な世の愛が神の愛と相容れないのは日を見るよりも明らかです。
しかし、この世を愛する態度には、いまのべた個人的なものの他にもっと深刻なものがあります。それは人に喜ばれ、人に尊敬され、世の誉れを受けたいという、人間の社会的な世の愛です。その消極的側面は他人に馬鹿にされたり、非難されないように、あるいは恥をかかないように、仲間外れにされないようにしようとする心です。「こんなことをしたら人に笑われないだろうか」と人の顔を見る態度です。「あんなことをすれば、皆からのけ者にされてしまう」と人を恐れる態度です。中身よりも外見を重んじ、正義よりも体面を重んじ、公平よりも人の歓心を買おうとし、罪よりも恥を気にし、神よりも人にならおうとする態度です。これを一言で言うなら「人間関係中心主義」と言えるでしょう。
しかし神を愛する人はそうであってなりません。まず神との関係を何よりも優先させなければなりません。心の目標を神に向けなければなりません。すべて生活の目的を神の愛につなげなければなりません。神との関係中心の生活態度に生きなければなりません。ここでパウロの言葉を聞いて下さい。
いったい私は人に喜ばれようとしているのでしょうか、それとも神に喜ばれようとしているのでしょうか。もし今なお人の歓心を買おうとしているのであれば、私はもはやキリストの僕ではありません。
クリスチャンとはそれまでのこの世の価値観を180度転換して、神の国の価値観に生きる人です。それまで大切に思ってきたこの世の幸福が、キリストを信じるようになってからは全くの無価値に無意味なものと感じられるようになるのが回心(メタノイア)の実験です。それまで自分のためこの世に宝を積んでいた生活の目標を全く捨て去って、正反対に自分を捨てて神に従い、天に宝を積む生活の目標に生きるのが、霊による生まれ変わりです(マタイ 6:20)。神を愛する人の心は天あります。クリスチャンの国籍は天にあります(ピリピ 3:20)。それだからわたしたちはこの世と妥協してはなりません。むしろ心を新たに造り変えられることによって、何が神の御旨であり、神に喜ばれ、また、正しいことなのか、祈って、静かに考えて知り、聖霊を受けて力を得、そしてこの世の罪と悪に対して神と共に戦うべきです(ローマ 12: 2)
神と世の二つとも同時に愛そうと思うのは偽りです。愛は一つの時に一つのことに心が傾けつくされることです。愛は全人格的誠実です。二人の女性、あるいは二人の男性を同時に愛することが出来ないのと同じです。愛は熱いか冷たいかであり、なまぬるいのは吐き出されます(黙示 3:16)。
これは神か世かの二者択一の問題です。キルケゴールの言葉を用いれば、「あれかこれか」の選択です。これは信仰と不信仰を同時に選ぶことが出来ないのと同じです。真実と不真実を兼ね備えることはできません、そうしようとするのは偽善者です。本物を愛するか偽物を愛するかの問題です。命の道を選ぶか死の道を選ぶかの分岐点です。
神を愛する人はこの世の罪を憎み、退けますが、また同時にその罪をあがない、その罪の赦しを神に祈ります。罪を憎んでも人を憎まず、世の悪を退けても世の善には親しみ結びます。なぜならこの世と人はその罪と悪にも関わらず、神が善として創られたものだからです。私たちは罪人です、その罪のゆえにさばきに渡されたものです。しかし神はその一人子をこの世につかわされたほどに、罪人の私たちを愛し、その罪をあがない、赦されました(ヨハネ 3:16)。おなじ愛を持って私たちは世と人に接しなければなりません。
クリスチャンは肉においてこの世を愛しませんが、霊において世と人に愛し仕えます。この世を心の依り頼み、宝としては愛しませんが、この世の隣人にたいして神の愛を実践し、天に宝をつみます。これは矛盾ではありません。肉の愛と霊の愛は全くの別物だからです。
1999/6/6 講述