戦う者と支える者

弟子と民衆
務めを果たす
迫害の人と助け人
選手とサポーター
神の国共同体


弟子と民衆

今日は信仰者の二つのタイプについて、あるいは信仰の担い手の2つの型について話をしてみたいと思います。結論を先に言いますと、信仰者には弟子のタイプと民衆のタイプ、あるいは戦士の型と支援者の型の二つがあると言うことです。そしてこの二つのタイプがそれぞれの務めを果たすことによって神の国は完成すると言うことです。

それでは最初にイエスにおけるの弟子と民衆から二つのタイプについて学びたいと思います。イエスが伝道を始めると、イエスをしたってたくさんの民衆がイエスのもとに集まりましたが、イエスが弟子として選び出したのは12人だけです。イエスは民衆を愛しあわれみ、多くのいやしや不思議のわざを行いましたが、弟子に対しては同じ奇跡を行う特別の権威と能力を与えました。イエスはたとえをもって民衆に語りかけましたが、弟子に対しては直接、奥義を語りました。イエスは十字架の道を歩んで民衆の罪をあがないましたが、弟子に対しては同じ十字架の道を歩むよう訓練し、また命じました。このようにイエスにおいて弟子と民衆は明らかに区別され、その対応の仕方が違っています。

これはどうしてでしょうか。イエスは民衆よりも弟子の方をより多く愛したのでしょうか。弟子を民衆よりも優れたものとしてあつかったのでしょうか。けっして、そうではありません。イエスの愛に区別はあっても差別はありません。イエスはどちらも完全に愛されました。

それでは弟子が民衆よりも優れた信仰や理解を持っていたのでしょうか。そうでもありません。弟子たちはあらしに会うとオロオロしてその信仰のなさをあらわにし、互いにだれが一番偉いかと言い争って、少しもイエスの心を理解しませんでした。かえってイエスに対する深い信仰や理解はローマの百卒長やベタニアのマリアといった民衆の中に見出されました。民衆の中には敵意を持ってイエスの話を聞いていた者がありましたが、しかし弟子の中にも裏切る者がいました。ただ全体としては民衆も弟子もイエスをしたい、その教えを聞くことを喜びとしていました。

ではなぜ区別したのでしょうか。それは人それぞれの個別の使命を自覚させ、神の国における各自の任務を果たさせるためです。神が人に与えられるものは千差万別です。ある人は使徒として、ある人は教師として、ある人は祈りの人として、ある人は施すものとして、ある人はなぐさめるものとして、ある人は賛美するものとして、各自にかけがえのない神の国における任務と地位を与えられます。

務めを果たす

人の存在意義はこの神の使命を見出し、その任務を果たすところにあります。そして各自が各自のパートを一生けん命果たすところにエクレシア(信仰共同体)のハーモニーがあり、天国の美があります。ある人は大きなコントラバスを任されるかも知れませんが、小さなピッコロを奏でる人も必要です。またある人は指揮の役をさずかるかも知れませんが、舞台裏で準備を担当する人も欠かせません。すべてが神の国の音楽を演出するのに必要なのです。「どのパートがよりすぐれているか」と思いめぐらすのはおろかであり不信仰です。すべてのパートが目的を一つにし、その完成の栄光に向けて共同して当たらなければなりません。

そしてこの人の使命には大きく分けて神の戦いを直接担う型とそれを間接的に支える型があります。直接十字架を背負って民の罪をあがなうために戦うのがキリストの弟子であり、間接的にその戦いを助けるのがキリストの民衆です。

キリストの弟子の使命は神と共に不義、偽りと戦い、キリストと共に十字架を負い、聖霊と共に悪霊を追放することです。福音の真理を述べ伝えて、灯台の光を守ることです。キリストの弟子は肉の欲と世のきずなを十字架につけて、神のみに依り頼んで生きます。この世の血縁、経済的基盤、政治的関心、社会的地位や名誉にサヨナラして、神の国と神の義を追い求めます。キリストは言います、「だれでも自分の父母、妻子、兄弟姉妹、そして自分の命までも憎むのでなければ私の弟子となることは出来ません」ルカ 14:26。この言葉はただ弟子のみが従うことの出来る奥義です。

キリストの弟子はこの世の権力者におもねってその利益を乞いません。かえって正義と公正と真理と生命の国を求めて、権力者に迫害される人となります、権力者の悪を照らしだし、罪を明るみに出すからです。もちろんこの世の秩序は神の御心にかなう範囲においてこれを尊重します。しかしこの世の政治的そして宗教的権力者は、全体として、その価値、目的、態度が、神の価値、目的、態度と正反対です。かつての「ヘロデとパリサイ人」は今日もその権力を振り回し、キリストの群れを散らし惑わしていますマルコ 8:15。この「ゴリアテ」(権力者)に対して神の素手で戦うダビデとなるように召された者がキリストの弟子です1サムエル 17:42-53

弟子はまた経済的に明日のことを思い煩いません。どうやって食べていこうか、何によって住まいの出費をまかなって行こうか、と心配しません。弟子はいつ死んでもよい覚悟を持っています。飢えて死ぬことが神の御心ならばそれを受けます。ホームレスとなって道ばたにのたれ死ぬのが神の定めなら、それに従います。

しかし私はあなたが方にお願いします、飢えて死にしそうな人に出会いましたか、どうかその人に食べ物を与えて下さい。凍えて死んでしまいそうな人を見かけましたか、どうかその人に宿を提供して下さい。神はあなたの愛を動かすためにキリストの弟子をそのような境遇に追いやったのかも知れません。「路頭に迷うレビ人(キリストの弟子)に施しの心を閉ざさないで、共に喜びを分かち合ってください」とは申命記が何度も訴えるところです12:19 14:27 16:11 26:12。「あわれみのある人はさいわいです。その人はあわれみを受けます」マタイ 5: 7

それが民衆の務めです。民衆はキリストの弟子を育て支えるものとなることによって神の国の喜びに入ることが出来ます。「私が飢えていたときに食べさせ、かわいていた時に飲ませ、裸でいたときに着せ、宿なしの時に宿を与え、牢に入れられていた時見舞ったので、あなたは神の国を受け継ぎなさい。これら小さい一人にしたことは私にしたことです」マタイ 25:35-40とあるときイエスは言いました。この小さい兄弟とは第一にキリストの弟子のことです。弟子は貧しいです。弟子は着る物にも事欠きます。弟子は枕するところがありません。弟子はこの世の権力者に憎まれ牢に押し込められます。そしてこのキリストの弟子を心で知り援助するのがキリストを信じる民衆です。民衆はキリストの弟子を物質的経済的に助けることもあれば霊的精神的になぐさめることもあります。

弟子に対する援助は自発的でしかもタイムリーであることが大事です。本当の弟子は援助を心理的に強要しません、経営的に献金を集めません。しかし愛に動かされた心ざしを喜びます、自発的な援助を感謝して受けます。それが神の御心にかなっているからです。

迫害の人と助け人

このキリストの弟子と民衆の関係は、一面において迫害される人とそれを助ける人の関係にあります。この点を次ぎにキリスト以前の預言者とこれを助けた人々の例に学びたいと思います。

神の人エリヤはアハブ王に憎まれ命を狙われたとき、ヨルダン川の東に逃れました。その時ケリテ川のカラスが彼に食物を運んでその命をつなぎとめました1列王記 17: 1- 7。この「カラス」は鳥でなく、名の知られていない支持者か、あわれみ深い見知らぬ人たちであったと私は理解しています。またさらにききんがひどくなって異郷の地を放浪していたエリヤに最後の一切れのパンを与えてその命を支えたザレパテのやもめがいました1列王記 17: 7-16。こうして命をつないだエリヤはその後一人で王に群がる450人を越す偽りの預言者と戦い、彼らをうち破り、神の真理を守り通しました。

もう一人の例は預言者エレミヤです。彼もまた一人よく神の戦いを戦い抜きました。そのエレミヤの使命を助け、その命を支えた人にシャパン一族がいました。この一族は書記の職を代々受け継いだ名門です。彼らはエレミヤの手紙を王に取り次ぎ、演説のために会場を提供し、民がエレミヤを殺そうとしたときにかくまいましたエレミヤ 26:24。またエチオピア人の役人もエレミヤが井戸の中に投げ込まれて殺されようとしていたとき彼を井戸からすくい上げ、その命を助け出しましたエレミヤ 38: 7-13

このように義のために迫害された人とその命を助けた人がいて、神の国の真理は守られました。そして日本人の中にも義のため迫害された者を助けた人は少なくありません。鎌倉時代に真理の預言者、日蓮は幕府とそれにこびへつらう宗教家に憎まれ、佐渡に島流しにあいました。その時佐渡の役人や宗教家は日蓮をその地で飢え死させようと企みました。しかし、そこに遠藤為盛と言う武士とその妻がいて、日蓮に食べ物を運んでその命を支えました。二人は見張りの目をくぐるため、夜中におひつを隠して、日蓮のもとに運びました。それが百日も続いたのです。日蓮はこの恩を決して忘れることはありませんでした。この二人の支えによって、日蓮は佐渡の地で彼の不朽の名著「開目抄」を著しました。これが彼の恩返しでありました

選手とサポーター

さて、弟子と民衆、迫害の人と助け人に現れた信仰の担い手の二つのタイプはスポーツにおける選手とサポーター(応援団)の関係からさらに学ぶことが出来ます。パウロはよく自分とエクレシアをトラックを走ったり、格闘技をする選手にたとえています。「私たちは賞を得るために走り、そのためにすべてのことに節制しています」、「自分が失格者にならないために体を打ちたたいて従わせ、朽ちない冠をめざして戦い続けています」1コリント 9:24-27。パウロはまさに神の代表選手として立派に戦い抜き、その栄光を私たちにもたらしました。

キリストの戦士は神から選ばれ、カリスマ(特別の資質)を与えられたプレーヤー(選手)です。その使命は大きく重いです。多くのタラント(任務)を負わされたものです。だから選手は特別の訓練、精進を必要とします。戦いの勝利のためにはすべてをぎせいにすることを要求されます。食べることも、楽しむことも、寝ることも、およそあらゆる肉の欲求を節制し、血縁、地縁、仕事、社交、その他の人間関係にわずらわされることなく、時間をおしんで準備し、精神を集中して戦いに臨まなければなりません。

他方、サポーターに関してはヘブル 12: 1が「雲なす証人があなたのレースの戦いを見守っています」と述べ、地上における信徒の戦いを天の応援団が祈りをもって支えていることを教えています。また昔、老いたモーセは手に汗して戦士の戦いをサポートしました。モーセが手を上げている間戦いは勝利し、手を下ろすと戦いは敗れたので、サポーターは一緒になってモーセを支え、その手を上げ続け、勝利をもたらしました出エジプト 17:10-13。サポーターの支援が勝敗を決めたのです。

私たちはよくオリンピック選手の戦いに声援を送り、その勝利を自分のことのように喜び、そのかんむりを自分のことのように誇ります。なぜでしょうか。選手も応援する自分も同じ国の民だからです。選手の戦いは自国の戦いであり、選手の勝利は自国の勝利だからです。選手は国の名誉と栄光のために戦うのであって、国を代表して戦っているのに過ぎません。私たちは最も優れた選手を選び、育て、支え、そして戦いに送り出します。一人の選手が倒れた場合は次の選手を送り出します。目的は一つ、自国の栄光です、そのために選手とサポーターは一体となって力をつくします。

神の国共同体

このことは神の国民の戦いの性質を教えます。もちろん私たちの戦いはこの世の戦いと違います。私たちの戦いは血肉に対してでなく、霊におけるサタンとの戦いです。私たちの戦いは真理の戦いであって、権力の戦いではありません。永遠の栄光のためであって、朽ちるかんむりのためではありません。私たちの武器は神の言葉であって、銃ではありませんエペソ 6:13-17。その盾は信仰であって、鋼鉄ではありません。私たちの戦いの手段は非暴力です。物理的にも心理的にも暴力を使いません。私たちは真理自らが真理のために戦うことを知っており、私たちは真理について行くだけです。

しかし神の民といえども最も相応しい者を選んでサタンとの戦いに当たるのでなければ勝利は得られません。たとえ最終的には正義が勝つのだと確信していても、手に汗をにぎるおもいで、戦いを見守ります。それが真剣勝負だからです、勝つときもあれば倒れるときもあります。そして戦いに勝利したときには、デボラと共に「勝利の歌」師士記 5を喜び歌い、勇士が倒れたときにはダビデと共に「弓の歌」2サムエル 1: 19-27を悲しみ歌います。

私たちは「戦うエクレシア(ecclesia militans)」です。エクレシアの一員としての自覚は共同戦線への参加によって培われます。参加の仕方は戦士ばかりでなく、後方支援として、何よりも祈りによって出来ます。真実な一つの祈りはよく千里の岩をも貫き通します。愛に動かされた一人の支援者の信仰は戦士の前に立ちはだかる山をも動かします。戦うエクレシアは老いも若きも、男も女も、大人も子供も一丸となって共通の目的のために全力をつくします。エクレシアの戦士とそれを支える者は悲しみを分かち、苦しみを分かち、困難を分かちますが、またそれによって勝利を分かち、喜びを分かち、栄光を分かち、賛美を分かち、収穫を分かちます。そこに戦士と支援者の区別はありません、エクレシアのメンバーすべてが平等にその分け前に与ります民数記 31:27そして戦いの最大の収穫はエクレシア(神の国共同体)の完成です。

私は以前マックス・ウェーバーの国家の定義を紹介して、国家共同体の基礎は理想と記憶の共有であると申しました(「国を導くもの」)。この原理は神の国共同体(エクレシア)においても同じです。神の国民としての共同体感情(一体意識)は、同じ理想の実現のために共に苦しみ共に戦ったという記憶の共有によって養われます。ですからエクレシアの一体(完成)は戦いを通してのみ得られるのです。「戦いなくして良いものは得られない」とは、まさにこの事です。

以上、今日は「戦う者と支える者」と題して話してきました。イエスが弟子と民衆を区別したのは、一方を戦士として他方を支援者として、その役割の違いを見極め、それぞれに相応しい教えと愛を注ぐためでした。イエスは弟子に戦いの訓練を、民衆に支える者の心得を与えました。弟子はよく戦ってサタンの攻撃から民衆を守り、民衆は弟子を助けて戦いを勝利へ導きました。また預言者とこれを助けた人を、エリヤ、エレミヤ、日蓮に学びました。そしてパウロの手紙とヘブル人への手紙から、戦う代表選手と見守るサポーターの役割分担と共同作業を学びました。戦いによって得られる最大の収穫はエクレシアの一体でありました。

1999/07/04 講述


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