もし人が信仰深いと自称しながら、舌を制せず、自分の心をあざむいているなら、その人の信仰は偽りです。父なる神の前に清く混じりない信仰とは困っているみなし子ややもめを助け、自らは世の汚れに染まず、身を聖く保つことではないですか。信仰と真実
藤井武は信仰と真実を重んじましたが、どちらか一つを取るとすれば真実を取ると言いました。それは真実な人は必ず信仰に至りますが、真実を欠いた信仰は救われようがないからです。 ・・・
真実とは純なこと、変わらないこと、ごまかしのないことです。信じると言えば、正真正銘(しょうしんしょうめい)、信じるのです。「私の信仰はよい加減なものですが、これでお救い下さい」というような態度は、神をバカにするものであり、砕けた霊(たましい)の叫びとは言えません。自分に真実がないことを感じるなら、それを真実に嘆き悲しまなければなりません。いい加減なごまかしがいけないのです。
藤井がヘビのように嫌ったものは、偽(いつわ)りです。信者なら信者、不信者なら不信者、はっきりした方がよいのです。信者を装った不信者ほどいやなものはありません。藤井は、何はなくとも信仰は真実でなければならないことを要求したのであります。信仰(faith)を守る態度は、真実(faithful)でなければなりません。神に対して真実な態度をとらない人が、神を信頼(信仰)するとは言えないことは明らかです。