羊飼い

主は牧者
よい羊飼い
キリストの使徒

私の信仰の先生
もう一つの課題
まとめ


主は牧者

主は私の牧者です。
私には乏しいことがありません。
主は私を緑の牧野に導き、
いこいの水辺に伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
み名のために私を正しい道に導かれます。
たとえ私は死のかげの谷を歩んでも、
わざわいを恐れません。
あなたが私と共におられるからです。
あなたのつえとあなたのむちは私をなぐさめます。
あなたは私の敵の前で私のために祝いの席を設け、
私の頭に油を注がれます。
私の杯はあふれます。
私の生きている限り絶えることなく、
あなたの恵みといつくしみとが伴うでしょう
私はとこしえに主の宮に住むでしょう。

詩へん 23

これは、ご存じのように、ダビデの不朽の詩へん、「主は私の牧者」です。羊飼いとして少年時代を過ごしたダビデは、牧者がヒツジにとって何であるかを良く心得ていました日々のかて 4月22日 。牧者は毎日ヒツジをエサと水のある場所へ連れていきます。時には草も水もない死の砂漠を通らなければならないときもあります。しかしヒツジは少しもあわてず恐れず、群を導く牧者に信頼してその後についていきます。あらしや洪水の時、牧者はヒツジを安全な場所にひなんさせます。オオカミやライオンがおそってくる時、牧者は体を張ってヒツジの命を守ります。「神は私の羊飼い、自分は神の後に従っていくヒツジである」とダビデは苦難多い人生を通して実感したのでしょう。

私たちの本当の羊飼いは主なるエホバの神です。神は私たちのたましいを生き返らせ、霊と肉のかてを日々与えられます。私たちが苦難や試練の谷を歩むとき神はそのつえをもって私たちを導き、そのむちをもって私たちを訓練します。サタンや敵が私たちを責め傷を負わせるとき、神は私たちをあがない、その傷をいやされます。そればかりか、聖霊を豊かに注いでなぐさめと力を与えられます。私たちの感謝はあふれます。私たちは喜び歌い、神をほめたたえます。

よい羊飼い

このように私たちの第一の羊飼いは神ご自身です。そして私たちの第二の羊飼いは人にして神なるイエス・キリストです。その所を見ましょう。ヨハネによる福音書10章です。

わたしはよい羊飼いです。よい羊飼いは、ヒツジのために命を捨てます。よい羊飼いでなく、羊が自分のものでもない雇い人は、オオカミが来るのを見ると、羊を捨てて逃げ去ります。そして、オオカミは羊をうばい、また追い散らします。彼は雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしはよい羊飼です。わたしはわたしの羊を知り、わたしの羊はわたしを知っています。それはちょうど、父がわたしを知っており、わたしが父を知っているのと同じです。そして、わたしは羊のために命を捨てます。

ヨハネ 10: 7-15

キリストは私たちヒツジを愛して、その罪のあがないのために十字架上に命を捨てました。それによって私たちは羊飼いの愛を知りました。そして神は、キリストを信じキリストの愛に生きる私たちを子として受け入れました。それ以来私たちヒツジは羊飼いと父子の人格関係に入ったのです。そしてヒツジの人格を愛する羊飼いはそのヒツジをいましめ、訓練します。

私の愛する子よ、主のいましめを軽んじてはなりません。主に責められるとき弱り果ててはなりません。主は愛するものを訓練し、受け入れるすべての子をむち打たれるからです。

ヘブル 12: 5- 6

そのつえとむちの訓練によってヒツジは羊飼いの声を聞き分けることが出来るようになり、またその声に従うことが出来るようになります。それよって、ヒツジは羊飼いを知り、その愛のうちに安らぐことが出来るのです。その時ヒツジは「私はキリストの内にあり、キリストは私の内にあります」ヨハネ 15: 4 と言う愛の契りの一体関係に入るのです。

キリストが自身を「よい」羊飼いと言ったのは、自らを救い主と称する「偽り」のキリスト、またキリストの門を通らずに自らをキリストの弟子、教師、伝道者と名乗る「悪い」羊飼いがいるからです。キリストのヒツジはどの声が「ほんもの」の羊飼いの声で、どの声が「にせもの」の羊飼いの声なのかを知ります。どのような姿が「よい」羊飼いの姿で、どのような姿が「悪い」羊飼いの姿なのか見分けることが出来ます。

ここでキリストは三点の区別の基準を教えています。第一に、よい羊飼いはヒツジの主人であって、雇い人ではありません。これに対して、悪い羊飼いは給料もらってヒツジの世話をする雇い人です。悪い牧者はヒツジと一生続く個人的な人格関係に入っていないから、給料がもらえなくなればヒツジを世話しなくなります。もっとたくさん給料がもらえるなら、現在飼っているヒツジを捨てて省みず、新しいヒツジの世話をしに行きます。そのような羊飼いは悪い牧者です。よい羊飼いはそうではありません。よい羊飼いにとってヒツジは「私のもの」、「私の子」です。よい羊飼いは父であり夫です。ヒツジは子であり妻です。

つまりよい羊飼いを見分けるの第二の点は、ヒツジと愛と信頼の人格関係に入っている事です。だからよい羊飼いはヒツジを自分の経済的あるいは理念的利害の手段として扱いません。かえってヒツジのために自らの命を捨てます。これに対して、悪い羊飼いは自分の利益のためにヒツジを利用し、オオカミが来ればヒツジを捨てて逃げてしまいます。

第三によい羊飼いはそのつえとむちをもってヒツジをなぐさめ訓練します。これによってヒツジは彼を知り、彼の声を聞き分け、彼に従うことを習います。訓練を受けないヒツジは羊飼いの声を聞き分けることが出ず、彼についていくことが出来ないので、道に迷い弱り果てて死んでしまいます。わるい羊飼いはヒツジを教育せず、ほったらかしにします。あるいは、その与える訓練はどれい的、盲目的なものでヒツジを死に至らすものです。彼らは自分の利益を優先し、ヒツジの自由を重んじず、その理性の発達を妨げ、ヒツジをその人格(救い)の完成へと導かないのです。彼にヒツジへの愛がないからです。

キリストの使徒

さて、神とキリストの他に第三の羊飼いとしてキリストの弟子、教師、伝道者がいます。再び聖書を見ましょう。ヨハネの福音書21章です。

そうして弟子たちがイエスと食事につくと、イエスはシモン・ペテロに言いまいした。「ヨナの子シモンよ、ここにいる人たちが私を愛する以上にあなたは私を愛しますか」。シモンは答えました、「はい、主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存じです」。イエスはシモンに言いました、「私のヒツジを飼いなさい」。

ヨハネ 21:15-17

キリストは弟子を代表するペテロにキリストのヒツジを飼うよう命じました。キリストの弟子はイエスを信ずる者のたましいを世話する務めを託されたものです。弟子は神の知識と信仰の原理をヒツジに教え訓練し、ヒツジを正しい道に導びかなければなりません。ヒツジの信仰生活に関して相談に乗り、アドバスを与えなければなりません。病み迷えるたましいに医(いや)しとなぐさめと勇気の所在を指し示し、彼らの信仰を強め、愛を深め、徳を高めなければなりません。そうしないとヒツジはサタンに麦のように振るわれ、ついには信仰を失って死んでしまうからですルカ 22:31-32

次ぎにパウロもキリストの使徒として羊飼いとなりました。パウロは雇い人でなく、ヒツジの生みの親、育ての親でした。ローマの刑務所に入れられていたときに逃亡どれいのオネシモがパウロのヒツジとなりました。パウロは彼を「捕囚の身で生んだ私の子オネシモ」ピレモン 1:10 と呼びました。またガラテヤのヒツジに対して「ああ、私の幼子よ、あなたたちの内にキリストが形作られるまで私は再びあなたのために産みの苦しみをしなければなりません」ガラテヤ 4:19 と訴えました。さらに、パウロはコリントのヒツジに対し、「たとえ千人のキリストの教師がいようとも、あなたたちの父は多くありません。福音によってキリストの内にあなたたちを生んだのはこの私です」1コリント 4:15 と言って、はばかりませんでした。

またパウロは伝道の組織団体やヒツジから給料をもらってヒツジの世話をすることをいさぎよしとせず、自らの手で働いて経済的独立を保ちました。パウロはテサロニケのヒツジにあてて次のように書いています。

私たちはだれのパンも食べず、日夜働き苦労してきました。それはあなたたちのだれにも世話にならないためでした。私たちにその権利がないからでなく、あなたたちが私たちに従う、もはんを示すためでした。これはすでに私たちがあなたたちと共にいたときに命じておいたことです。すなわち、「だれでも働かないのなら、食べてはいけません」。

2 テサロニケ 3: 8-10

パウロはこの警告を特にヒツジを飼うキリストの教師、使徒、伝道者に向けているのです。「ヒツジに経済的に依存してはいけません」。「ヒツジの世話を生計の手段のとしてはいけません」と命じているのです。

そしてパウロはまたヒツジに教えと訓練を彼の力の限り与えました。新約聖書の四分の一を占める彼の手紙の数々がそれを何よりも示しています。時には叱り、時には誉め、時にはさとし、時にはなぐさめ、時にはおののかせ、時には勇気づけ、自分に習うものとなるよう勧め、また命じています。

こうして見てくると、イエスが示した「よい羊飼い」の三つの点(雇い人でないこと、ヒツジと愛の人格関係を結んでいること、ヒツジを教え訓練していること)をパウロはよく実践していました。

私の信仰の先生

私にも二人の羊飼いがいました。いや今なお天において私を導いています。一人は私の少年時代、もう一人は私の大学時代に私のたましいをねんごろに世話して下さいました。一人は直接その目を通し、その生きざまを通し、キリストの信仰を示し、真理の喜びと悲しみを証しました。もう一人はその言葉を通し、その戦いの生涯を通し、信仰が人格的関係であること、その純粋を守ることの重要性、そして真理愛を私に刻み込みました。一人は私の信仰の生みの親、名付け親でり、もう一人は私の信仰を純化し真理愛と人格観念を培った、育ての親です。この二人とは、前者が佐藤一哉先生であり、後者が矢内原忠雄先生です。二人が神より託された私の羊飼いであることを私は信仰によって知ります。

子供の私は畏れと尊敬をもって佐藤一哉先生を仰いでいました。日曜集会は神聖でげんしゅくでした。その話は理解できなくても、一哉先生の一途で真剣な、また純粋で躍動している姿は私の心に深い印象を与えました。私にも課せられた集会毎の聖句暗唱はよい訓練でした。私は好んで山上の垂訓を暗唱しました。それは私の心にイエスの言葉を植え付け、私の人生の指針として何度も私を正しい道に導きました。

佐藤一哉先生は幼子の心と喜びを失わなかった人でした。その純粋な信仰と全身をもって表現する真理の喜びと悲しみは、先生に接する人がまず第一に受ける印象でした。先生は雇い人でなく、独立伝道者であり、生計は医者の労働で支えました。先生はいかなる組織や団体によらず、一人神と共に歩んで信仰と真理を伝えました。しかし先生に最後まで人格的誠実をつくした人はほんのわずかしかいませんでした。その集会は一人か二人を相手に真理を説くのが常でした。その伝道の生涯は悲しみの生涯でありました。でも、その純粋な信仰と真理に対する忠実のゆえに私の信仰は育てられたのです。信仰に立ち返った青年時代に、私は先生の奥さんの昇天追悼会に出ました。そこで一哉先生の天国への思いを聞きながら、この人こそ誠に私の信仰の生みの親であった、と感を深くしたことを覚えています。以来わたしは「あぶくま」をもって自分の信仰名とし、三年前のアメリカ留学中「あぶくま無教会」を名乗ってホームページを開設し、そして今、あぶくまの地で一哉先生の後を継いで「あぶくま無教会」の信仰と真理のともしびを守るべく立っています。

一方、矢内原忠雄先生はその著書によって私を教え導き、いましめ訓練を与えた、信仰の育ての親です。私は肉において矢内原先生に会っていません。私が生まれた1961年、矢内原先生は天に行かれました。肉において先生を知らないことは私によいことでした。私はより純粋に先生の信仰を学び、より明らかに先生の真理の戦いを理解できたからです。矢内原先生も独立伝道者として組織団体によらず、個人の責任において福音をのべ伝え、生計は大学教授によってまかなっていました。また先生の弟子に対する愛と規律には特別のものがありました。神を畏れ、自らの信仰と姿勢を正し、その責任を自覚させるため、先生は従ってくる者に対する人格的訓練をおしみませんでした。

矢内原先生は神と共に一人立つ者の悲哀を身にしみて感じていました。「真理の悲哀性」は先生の発見した真理でした。また信仰とは神との人格的真実関係であることを明らかにしたのも矢内原先生でした。矢内原先生は言います、

信仰が生きていなければならないということは、父なる神と救い主キリストとに対する人格的真実をもたなければならないということです。真実は人間相互の交際の根底ですが、人に対して真実な心をもたない人が、神とキリストとに対して真実な心を持つはずがありません。また、神とキリストとに対して真実な心、すなわち真実な信仰態度をもつ人は、人に対しても真実な心を持たされます。それは人格的結合の要素は「真実」であり、神とキリストとに対する関係も、また人間相互に対する関係も、人格的関係と言う点においては同一だからです。

日々のかて 12月26日

ですから無教会は信仰の師弟関係を重んじます。信仰は人格的誠実関係であり、信仰の命は人格的伝承だからです。もちろん師を偶像化してはいけません。絶対者は神のみ、人は罪にまみれた者です。人が信ずべきものは神のみ、依り頼むべきものはキリストのみです。しかしながら、目の前の人に誠実と愛をつくさない者が見えない神に誠実と愛をつくすことはできません。神が私たちに人間の羊飼いをつかわされるのは、それによって私たちが神の真実と愛を学び、知るためです。

私は矢内原先生の信仰を受け継ぎ、伝えることが私の使命であると確信しました。その最初に示された課題は矢内原先生版の「一日一生」を作ることでした。始め私はこれを私自身のために作りました。何度も繰り返して、私のたましいのかてにする先生の短言を集めている内にこの着想を得たのです。私がインターネットに最初に公開したのが矢内原先生の真理のエッセンスをあつめた「日々のかて」でした。私は「矢内原忠雄の子」である事を誇りにしています。

もう一つの課題

私はここで無教会のもう一つの課題にたどりつきました。それは羊飼い(たましいの世話)の純化です。以前私は無教会の使命は「呪術からの解放」、「制度からの解放」であると申しました。またそのために預言者精神の継承を語ってきました。ここに私は、預言者の戦いと並んで、たましいの世話をする教師(羊飼い)の活動が無教会の使命を果たすのに欠かせない要素であると確信します。預言者は神の「啓示」を語って人を霊感しますが、教師は神の「知識」を教えて人の信仰と徳を高めます(マックス・ウェーバー「宗教社会学」)。預言者は個々の知識に統一を与え、その意義と中心的態度を示しますが、教師は信仰の応用と倫理の実践を人格的交わりと知識を持って支えます。この二人は神の国を前進させる「車の両輪」です、神の経綸(人類救済史)の共働者です。イスラエル・ユダヤの信仰史は預言者とレビ人教師(たましいの世話人)によって発達し、聖書は預言者のデバー(言葉)とレビ人のトーラー(教え)によって成り立っているのと軌道を同じくします(ウェーバー「古代ユダヤ教」)

そして真の預言者と教師に共通するものは第一に神の活動を報酬なしでおこなうこと、第二に理解倫理を重んじることです。

キリストの教師はヒツジの世話を生計の手段としてはいけません。職業として経営的に企てはいけません。大部分の制度教会が給料を払って雇い人(牧師や神父)に行わせている「たましいの世話」は、これをまねてはなりません。かえって、ユダヤ教のラビ(教師)のように無報酬で神の知識を教え、個人の信仰生活を導き、「よい羊飼い」となることです。そのためには、パウロのように他の職業につくか、あるいはイエスや洗礼者ヨハネのように自然が与えるものと信じる者の自発的施しによって生きることです。もちろん、私はここで、「キリストの教師は献金や施しを受けてはいけない」と言っているのでは決してありません。パウロ自身エルサレム教会のために、献金を集めて回ったし、伝道の先々で信者の自発的なもてなしを感謝して受けています。しかしそれは自らの経済的独立を損なわない範囲において受けたのであって、経済的にあてにしたのでも、心理的に強要したのでも、経常的に営んだのでもありません。

偽りの預言者、にせ教師とは誰ですか。神の言葉、神の知識を生活の手段とする人です。今日の制度教会の無力はどこにありますか。ヒツジの世話を職業として経営しているところにあります。民、ヒツジにこびへつらって、彼らの安易なこの世の思いに迎合して、彼らの喜びそうなことを語り、彼らの要求に合うように神の知識を曲げて教えるから、真理本来の力が発揮されないのです。すべての預言者、教師、教会はこの誘惑におちいる危険があります。信仰の化石化、生命の喪失(社会学的用語をもちいるならカリスマの日常化 は何よりも経済的利害の侵入から始まります。このサタンのわなに落ち入らないようにするには、民、ヒツジから経済的に独立している必要があります。

羊飼いの純化の第二はヒツジへの教えから律法的、儀式的要素を取り除くことです。神の知識を純信仰的、純倫理的なものに高めることです。この点はユダヤ教のラビを習ってはいけません。ユダヤ教が今日のように特殊に閉鎖的宗教になってしまった最大の原因はラビが神の知識を律法主義的、儀式主義的に解釈して民に教え込んでしまったからです。無教会の教師は常に「人を生かすものは文字でなく、霊である」事2コリント 3: 6 、「神が求めているものは祭りごとでなく、あわれみであり正義である」事ミカ 6: 8 を、忍耐強く民に教えなければなりません。「ヒツジ」は惑わされやすく、安易な「律法の解決論」と「儀式による救い」に傾くからです。このような避けがたい世俗化に対抗して「教え」の信仰的、倫理的純粋性を守り通すためには経済的ばかりでなく精神的にも独立した人格を確立しなければなりません。学派や神学校、教師、牧師の組織や団体からも独立して、神と神のつかわされた羊飼いからのみ直接人格的交わりを通して学べ訓練される必要があります。そして、個人の責任において神の知識を人格的に教えを伝えなければなりません。

まとめ

以上、今日はたましいの羊飼いについて話してきました。私たちの羊飼いとは第一に神ご自身、第二にキリスト、第三にキリストの弟子、教師です。「よい羊飼い」は第一に主人であり、雇い人でなく、第二に人格的関係に入っており、第三に訓練を与えることを学びました。そして無教会の使命は「よい羊飼い」を身をもって示すことです。そのためには無教会の羊飼いは第一に無報酬でヒツジの世話をすること、第二に教えの内容を信仰的倫理的に純化することが求められています。

1999/09/12 講述
1999/09/17 展開


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