神の憲法

平和憲法
ドイツに学ぶ
コスタリカに学ぶ
イザヤに学ぶ
平和人の創造
平和国家への道


平和憲法

今日は5月3日の憲法記念日です。前回「地のうめき」と題して「平和を作り出す人」となることを話しましたが、今日はその続きとして日本国憲法に焦点をあてて話したいと思います。

今から51年前の1947年5月3日、日本国憲法は私たち日本人の法の原理となりました。それまでの天皇を神と崇め、軍国日本を目指した帝国憲法は廃止され、新たに生まれ変わった平和憲法が私たちに与えられました。まず始めにこの憲法の中心である第9条を読み上げたいと思います。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に求め、国権の発動としての戦争と、武力によるいかく又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段として、永久にこれを放棄します。この目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しません。国の交戦権は、これを認めません。

日本国憲法「第9条」)

私はこの平和憲法を神の憲法と呼びたいと思います。なぜなら第一に、この憲法は平和を誠実に求めるとうたって、イエスが祝福した「平和を作り出す人」となる決意を表しているからです。第二に、この憲法は他国の憲法に例を見ない戦争の永久的放棄と軍備軍隊の廃止を宣言することで、「剣を打ちかえてスキとしヤリを打ちかえてカマとし、もはや国は国に向かって剣を上げず、戦争の事を学びません」ミカ 4: 3と預言したミカの精神を継承しているからです。第三に、この憲法は戦争を非とし武力暴力を非として、日本の預言者、内村鑑三と矢内原忠雄が戦った非戦非暴力の平和主義の精神を受け継いでいるからです。内村は平和憲法が出来る20年前にすでに日本の戦力放棄の実現を預言しています。英文の論説で彼は次のように言っています、

私の日本が、50年前さむらいの武装解除を実施したように、自らの主権において国家の武装解除を実施する日が来る時、それは何と喜ばしい事でしょうか。

(1926年4月 「新文明」)

この内村の預言の成就を私は日本国憲法に見ます。

そして第四に、この点が決定的なのですが、この憲法は日本国民が自ら作り出したのではなく、神がマッカーサーを通して啓示的に与えられたものだからです。もし日本自らがこの平和憲法を作ったのであれば、「神の憲法」と呼ぶことは出来ません。しかし残念ながら日本自らが作り出したものは平和主義とは正反対の武力主義の帝国憲法でした。この帝国憲法のもとでの日本の悪と罪に対して神は敗戦という審判を下し、マッカーサーを送って武装を解除させ、悪の根源である軍国主義を日本から一掃しました。そして平和主義の高尚な理想に生きる民となるために神はこの絶対非戦の憲法を日本に啓示したのです。

神は今から3400年前に外国育ちのモーセを立ててイスラエル人に「神の律法」を与えたように、51年前外国人マッカーサーを立てて日本人に「神の憲法」を与えました。ユダヤ人は自らの意志で「神の律法」を受け入れ、これを守り行うことで「神の民」と呼ばれるようになりました。もし日本人が「神の憲法」を自らの意志で受け入れ、これを守り行うならば同じように「神の民」と呼ばれるでしょう。「もし日本が真に平和国家を打ち立てるなら、世界平和の中心となり模範となって、世界の歴史に永遠的な貢献をするでしょう」、と矢内原は言っています『日々のかて』5月3日。ですから、信仰による日本人はこの「神の憲法」を誇りとし、これを守り、「平和を作り出す人」になる事を神に対する使命として、また責任として実行します。

ドイツに学ぶ

しかし現実の日本はどうでしょうか。悲しいことに、自衛隊は軍隊ではないと言うきべんによって陸海空軍の戦闘力を増強しています。理想を捨てて憲法をないがしろにし、武力にたよる国家を再び築き上げています。なぜ日本は憲法を守らず、軍備軍隊を放棄しないのでしょうか。それは日本が神に依り頼む信仰を持たないからです、この民に過去の罪に対する神への悔い改めがないからです。

過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない人は、再びそうした危険に陥りやすいのです。

とドイツのヴァイツゼッカー大統領は敗戦40周年の連邦議会での演説(1985年5月8日)でドイツ国民に過去の罪の現実を直視することを促しています。これはそのまま日本に当てはまります。彼はさらに、ドイツ国民に神への信仰を呼び起こすため、続けて次のように言っています。

(過去を思い起こし)心に刻むというのは、歴史における神の御業を目の当たりに経験することであります。これこそが救いの信仰の源であります。この経験こそ希望を生み、救いの信仰、断ち裂かれたものが再び一体となることへの信仰、和解への信仰を生み出すのであります。

このように信仰によって立つ指導者を持つ国は祝福です。私たち日本人も信仰によって立つ国の指導者を持たなければなりません。神を畏れ、信頼する指導者こそが日本を平和国家へと前進させることが出来るのです。

コスタリカに学ぶ

これに反して、神に依り頼まない、不信仰の国、不信仰の指導者は自国の戦力を頼み他国の戦力を利用しようとします。「そもそも、絶海の孤島や極端に小さい国を除いて、軍隊を持たない国は空想だ」と不信仰の民はいいます。「永世中立国を宣言しているスイスでさえ自衛のために国民皆兵の制度を作り、軍事訓練に余念がないではありませんか」、「日本が自衛隊を持つのは国家として当然の権利ではありませんか」、と彼らは訴えます。

しかし、皆さん、軍隊を持たない国は存在します。知っているかもしれませんが、中央アメリカのコスタリカという国です。この国は日本国憲法が実施されてた翌年の1948年、「永久機関としての軍隊を廃止する」憲法を採択し、それ以来今日至るまで軍隊を持っていません。さらに1983年には永久非武装中立を宣言し、近隣諸国が戦争に明け暮れている中で唯一コスタリカだけは戦争がなく、隣国から侵略されることもありませんでした。かえって争いの絶えない中央アメリカの平和のために努力し、その成果が認められて1985年にはサンチェス大統領がノーベル平和賞も受賞しました。

コスタリカは、私たちに軍備軍隊を持たない国が決して空想でない事を教えます。それは実現可能な理想なのです。日本はコスタリカのように非武装国家にならなければなりません。その実現に向けて努力しないのは国のたいまんです、不信仰です。しかし日本が非武装国家として立つためにはぜひとも神に依り頼む信仰を持たなければなりません。神への信仰こそが世界平和のみなもとだからです。

イザヤに学ぶ

この原理はすでに今から2700年前、イザヤが歴史の現実の中ではっきりとに示しています。紀元前701年、アッシリア王セナゲリブがエルサレム征服のため大軍を出発させた時、イザヤは民に言いました、「アッシリアを恐れる必要はありません、心静かにして、神に依り頼めば救われます」イザヤ 30:15と。ところが民は彼をあざけり、彼に耳を傾けず、エジプトに援軍を頼み、軍馬と戦車を増強して、戦いに備えました。しかし大軍のアッシリアに対して、エルサレムはなすすべがなく、すぐに包囲されて落城寸前になりました。民はあわてふためき、おろおろし、当時のヒゼキア王は悔いてイザヤに助けを求めました。その時イザヤは不動の信仰を持って王に再び言いました、「アッシリアを恐れる必要はありません、心静かにして、神に依り頼めば救われます」。するとどうでしょうか、翌朝エルサレムを囲んでいたアッシリアの大軍が退却を始めるでありませんか。彼らの間で疫病が急に広がり戦える状態ではなくなっていたのですイザヤ 36-37

この歴史的大事件はユダヤ人の中にイザヤの預言とその信仰を決定的なものとしました。このイザヤの信仰は私たち日本人に、国が依り頼むべきは軍隊でも外国でもなく、ただ全知全能の万軍の神エホバであるこを教えます。私たちはこの信仰にかたく立たなければなりません。

平和人の創造

思えば戦争の根源は人の争う心、自分の欲をとげるため相手を強制しようとする事にあります。兄弟ゲンカは戦争の始まりとは私が子供のとき父から何度も言い聞かされてきたことです。ヤコブは言っています、

あなたたちの間の争いや戦いは、一体どこから来ますか。それは他でもありません、あなたたちの肢体の中で相争う欲からではありませんか。あなたたちはむさぼろうとして得られないので人を殺し、手に入れようとして得られないので争いを起こします。

ヤコブ 4: 1-2

戦争をなくすには人の争う心、欲をとげようとする心を変革しなければなりません。この平和人の創造には神に対する心の悔い改めと神による心の生まれ変わりを必要とします。いいかえれば、平和を性格とする人格の確立は神への信仰によってのみ可能です。

平和国家への道

皆さん、今日は神への信仰、依り頼みが、平和のためにいかに大切であるかと言う事を憲法を通して話して来ました。最後に矢内原忠雄の「平和国家の道」を朗読して話をしめくくりたいと思います。

戦争と敗北の犠牲(ぎせい)を払って日本の得た貴重な理想は、「平和国家」です。一切の軍備を持たず、一切の交戦権を放棄した憲法をもつ国家は、古今東西日本がただ一つあるだけです。私たちの先輩が軍備の全廃を論じて「空想」と笑われたことが、現実の事実となって日本国憲法に規定されたのです。日本国憲法の草案がアメリカ人の手によって成ったか日本人の手によって成ったかを問わず、いづれにしても日本国会の審議を経てこの憲法は成立したのであり、それは神の啓示による平和国家の理想を日本国民の意思によって受け入れたものに外なりません。 ・・・ 

平和の道は生きている神を信じる信仰にあります。日本はこの神の保護を信じ自主的に平和国家の国是を厳守して、右にも左にも曲がってはなりません。そこにのみ日本の生きる道があります。

『日々のかて』12月6日

1998/05/03 講述
1999/07/06 更新


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