知性と信仰

1998年10月04日

はじめに
協調関係
緊張関係
ダイナミックス


はじめに

まず、1コリント 14:15, 20を開いて下さい。読みます。

ではどうすればよいのでしょうか。私は霊において祈ると共に知性においても祈りましょう。霊において賛美すると共に知性においても賛美しましょう。・・・兄弟姉妹の皆さん、物事の判断においては子どもではいけません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においては大人になりなさい。

今日は知性と信仰の関係についてみなさんといっしょに考えて見たいと思います。知性とは何でしょうか。一言で言えば、思考と理性の能力であり、事物を考え判断し、知識を理解し習得し用いる能力の事です。ですから「知性で祈る」とは他の人が聞いて理解できる言葉と内容を祈ることです。人は無知で「神を賛美する」よりも知って賛美するほうが優れています。「悪事について幼子」とは悪を計らず自らの罪に対しては素直な心になりなさいということです。しかし「物事の判断」や「考え方」で「大人になる」とは、知的訓練によって、何が偽りで、何が本当のことか、「何が神の聖意にかない、何が善であり完全なことであるかを、わきまえ知ることです」(ローマ 12:2)。以上の教えからパウロが信仰と共に知性をも重んじていることが解ります。これは「ハトのように素直に、ヘビのように賢くありなさい」(マタイ 10:16)、というイエスの教えに共通する内容です。つまり、「幼子の信仰と大人の知性を求めなさい」、と言えると思います。私たちは神に対して幼子のような信頼と素直さを持つと同時にこの世に対しては大人の見る目と判断力を持たなければなりません。サタンは巧妙に人を罪と悪に落とし入れようとしますので、それを見破る知恵を持たなければなりません。しかし、たとえ落ちても幼子の信仰をもって神に帰らなければなりません。

知性との関連でもう一つ触れておきたいのは、「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ 12:30)との重要な聖句です。この「精神をつくし」という言葉は日本聖書協会の口語訳の訳ですが、日本で二番目に読まれている日本聖書刊行会の「新改訳」では「知性を尽くし」と訳しています。つまり「考え、理解し、判断する知力の全てをつくして神を愛しなさい」、と言う意味です。

協調関係

このように見てくると知性は信仰生活上重要な要素の一つであることが解ります。「知識がなければ信仰は迷信に移りやすく、信仰がなければ知識は冷淡に終わる」(全集 20:260)、と内村鑑三は言ってますし、それから矢内原忠雄も、知識によって「信仰のなかから迷信的な要素を除くことができ」(全集 26:241-2)、信仰によって知識は「飛躍的進歩」をとげる(日々のかて 9月12日、と述べています。こうした言葉から、そして何よりも自らの信仰の実験を通して私たちは信仰と知性が相互に関係しあいながら、共に成長していく事を知ります。

知性を欠くとき信仰は迷信に落ち入りがちです。知識や学問の発達によってくずれるような宗教や信仰は迷信です。本当の信仰は知識や科学の領域を越えた所に立っています。哲学者のカントは彼の記念すべき著作『純粋理性批判』の中で、「哲学における最大の課題は神の存在と魂の永遠性と意志の自由であり」、そして「この3つのものは純粋理性においては論証不可能」であり、それらは知的理性の領域ではなく「信仰の領域である」、と言っています

このように、真の信仰は学問の発達によってくずれないばかりか、かえって学問によって強固なものになります。これは私自身の経験でもあります。私は大学時代の後半に「神の愛」に目覚めて信仰に歩むと共に、真理愛にもえて学問を追求し今日に至っていますが、学問によって私の信仰からどれほど迷信やこの世的利害が取り除かれ、信仰がより純粋に高められたか知りません。自らの信仰を清め高めるために、私たちは知性における訓練(考える、学ぶ)が必要です。この意味で知性は不純な思いやこの世的な伝統的観念を打ち破り、真の信仰へと人を導きます。

しかし他方で知性そのものは信仰によって基礎づけられ進歩します。「神を畏れることは知識の始めです」(しん言 1:7)。信仰は知性に目的と価値と着想(インスピレーション)を与え、知識の進歩に貢献します。矢内原が言っているように、「信仰によって知識は励まされ、また光から光へ上げられて行くのです。理解されるや直ちに理解されたものに進んで行くという事、それも信仰の力です」(日々のかて 8月14日。そして信仰は困難な知的真理の探求に不とう不屈の精神を与えます。

しかしながら、このような知性と信仰の協調関係を悟るには、それ以前に両者の間の非常な緊張関係、戦いを避けて通れません。

緊張関係

私たちは信仰において純粋に生きようとすると、たちまち経済的にも、政治的にも、美的にも、そして性愛的にも非常な緊張関係に直面します。その一つ一つが大きな力で私たちの信仰を骨抜きにしようと誘惑し、また戦いを挑んできます。そしてそこで信仰を捨てたり、信仰が死んでしまう多くの人を見ます。そうしたさまざまな緊張関係のなかで知性と信仰との緊張関係は「最大のもので最も原理的である」、とウェーバーは言っております

「知性と信仰ではどちらが大事ですか」、と言えば、もちろん信仰です。信仰がみなもとであり、知識はその実です。私たちの中心点は信仰であり、知性はその手段に過ぎません。しかしながら、この原理をいくら心得ていたとしても、私たちの肉は弱く、知性も弱いのです。そのためしばしば罪の誘惑に落ち入ります。肉が罪の法則にとりこにされているように、知性もまた罪の支配下にあるのを私たちは見ます。人は知識を持つと誇りやすくなります。罪の中の最悪の一つである高ぶりの罪に落ち入りやすくなります。知識が多ければ悩みも多くなります(伝道の書 1:18)

知性は信仰を助けるよりも、信仰に敵対する目的に用いられるのがこの世の常です。とりわけ宗教家といわれる人が「律法」とか「教義」とかの名の下に知識と信仰をすり替えるときその罪はきわみに達します。イエスが最も激しく戦った敵は知恵に高ぶる宗教家、学者、知識人たちでした。無学で単純なユダヤの同胞を「バカ者」と言う人は地獄の火に投げ込まれなければならない(マタイ 5:22)、とイエスは警告し、また偽善の律法学者やパリサイ人に対しては激しく怒り責めました(マタイ 23:13-33)。そして信仰による救いの道が幼子に啓示されても、知恵ある者と賢い者には隠されている事をイエスは神に感謝しました(マタイ 11:25)パウロも言っています、

知恵ある者はどこにいますか。学者はどこにいますか。この世の評論家はどこにいますか。神はこの世の知恵をおろかにされたではありませんか。なぜならこの世の知恵によっては神を知ることは出来ないからです。信じる者を救う宣教のおろかさを神は喜ばれます。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を求めますが、私たちは十字架のキリストを述べ伝えます。キリストは、ユダヤ人にはつまずきの石であり、ギリシャ人にはおろかですが、召された者にはユダヤ人にもギリシャ人にも神の力、神の知恵です。

(1コリント 1:20-24)

このようにキリスト教はその始めから知識主義との対決をはっきりと打ち出していました。キリスト教の内面的歴史を他の宗教と区別する特徴の一つは「あらゆる形の知性主義との戦いである」、とウェーバーは述べています。

神はある時点で知性のぎせいを要求されます。知的好奇心とか知的欲求の満足とかの態度を捨てて、信仰を、つまり知的理解を超えた神の御心を信頼し、神の命令に従う態度を要求されます。これをアウグスチヌスは、「私は不合理だから神を信じるのではなく、不合理にも関わらず信じるのです」、と言っています。しかし現実問題として知性のぎせいを神に捧げることが出来るのは、キリストの弟子のみです。一般の人々とりわけ知識人は自らの知性の無限の可能性を信じて、それをあきらめず、神に依り頼もうとしません。彼らにとって知性のぎせいを要求する十字架の言葉はおろかであり、つまずきです。人はその体も知性も心も、自らの力で捨てることは出来ません。それは人の能力に余ります。自らの力で生まれ変わることは出来ません。知的欲求は肉の欲と同じく強力に人をしばります、それは捨てがたい、あきらめられないものです。しかし信じる者にはすべてが可能です。信仰生活を続けていけばある時点で神は信じる者の心を新たに生まれ変わらせます。知的欲求の執着を捨てて、神を第一義的に求める生活態度を私たちの内に創造します。それは神の力です。

私にとってもこの知性と信仰の緊張関係は、とりわけ学生の時には性愛の緊張関係と並んで、耐え難いものでした。「宗教はアヘン」であり、「処女受胎、復活、奇跡は非科学的である」という攻撃と信仰拒否の態度が支配的な学問の世界で、私は「信仰と学問の両立は不可能なのだろうか」と真剣に悩みました。そんなとき私を支えたのは矢内原の次の言葉でした、

仮に科学の研究の到達した発見と宗教の把握した信仰とが直接関係ない場合、あるいは直接には相矛盾(あいむじゅん)するように見える場合であっても、何もうろたえる事はありません。真理は学問的知識および信仰的理解の両者を含み、しかもそのどちらよりも大きいのです。学問は学問として真摯(しんし)に続けなさい、信仰は信仰として真摯に続けなさい。

(日々のかて 8月9日)

この言葉に支えられて私は一人でマックス・ウェーバーの社会学と矢内原の無教会信仰を学び続けました。その結果、学問は私から迷信的要素を取り去り、信仰は学問への着眼点と真理愛を注ぎました。緊張関係を通して得られたものは豊かな学問と信仰の実りでした。その進歩でした。この実験を通して緊張関係は生命の原点であり、真理の躍動(ダイナミックス)であることを学びました。

ダイナミックス

知的論理の一貫性から見れば信仰は多くの矛盾を含んでいます。たとえば「人は行いによってではなく信仰によって義とされる」(ガラテヤ 2:16)と、言う一方で「信仰だけでなく行いによって義とされる」(ヤコブ 2:24)、「義を行う者が義とされる」(第一ヨハネ 3:7)、と言う言葉も聖書には含まれています。神は預定の経綸をつかさどると共に人の自由意志を重んじます。神は唯一でありながら三つの人格があります。

このような論理的矛盾は真理に反しているでしょうか。決してそんなことはありません。この矛盾しているかに見える真理の属性を「真理はだ円形」と内村は呼んでいます。だ円形の軌道は二つの中心点によって決まるように、真理の働きは二つの中心点から出てきます。

またウェーバーも聖書のような「倫理預言には論理的に矛盾する教えが含まれる事もある」と『宗教社会学』の中で言っています。なぜなら「預言者の教えは論理的一貫性ではなく、実践的価値を目的」としており、論理的に相矛盾する教えが共に生活態度の倫理的合理化、実践的統一化に働くこともあるからです。

以上のような矛盾や緊張関係は最終的には私たちに生命をもたらすダイナミックな関係であります。内村は、「生命は知識と信仰の相接触する点にある」(全集 20:260)、と言っています。緊張関係はまた愛の契機でもあります。愛は知識と信仰をつなぎます。「愛するという事がなければ信仰は概念に化石化する危険があります。私たちの信仰が健全であるためには、知識と信仰と愛とは互いに他の二者を含みながら同時に存在する必要があります」(日々のかて 8月21日)、と矢内原は言っています。愛が人生の中心点です。愛がなければ信仰も知識も一切が無益です。知識はやがてすたれますが、愛は永遠です。すべての生活を愛を中心に、一切の行動を愛を動機とする態度が必要であると思います。


ホームへ