矢内原忠雄の歩み


(1893-1961)

少年時代

矢内原忠雄は1893年1月27日、医者の子として四国の農村、現在の愛媛(えひめ)県今治(いまばり)市、に生まれました。父は武士道の道徳訓をことあるごとに子供の忠雄に植え付けました。忠雄は父から「誠実」と「正直」を学びました。母は静かで愛情のあふれる人でした。忠雄の宗教心は祖母によって育まれました。祖母は仏教心のあつい人で三度の食事は欠かさず仏だんへの供えをしてから食べ、よく忠雄を寺の説教に連れていきました。そして何よりも祖母のあわれみの心は子供の忠雄に深い印象を与えました。祖母は村で最も貧しいやもめを親友とし、近くの部落民の子供たちによく施しをしました。父は教育熱心で子に良い教育を受けさせるため、神戸のいとこに11才の忠雄を預け、神戸中学校に通わせました。この中学校の校長、鶴崎久米一は内村鑑三(うちむらかんぞう)と新渡戸稲造(にとべいなぞう)の同級生で札幌農学校を出ました。

青年時代

1910年、忠雄は中学校の友のえいきょうによって、第一高等学校(東京)の法科に進みました。一高の校長でありクエーカー・キリスト者であった新渡戸稲造との出会いは、矢内原に深い霊感をあたえ、自由の精神と人格の尊厳(そんげん)を植え付けました。矢内原はいっています、

新渡戸先生が私どもに人間の自由ということについて、自由と責任ということについて、深い教えをされたということは、内村鑑三先生の信仰に基づいての教えと相並んで、私という人間を組み立てた、たて糸、よこ糸となっていると言っていいと思うんです。

(全集 26:238)

1911年10月1日、矢内原は内村鑑三の聖書研究集会への入門を許され、キリスト教信仰の歩みを始めました。翌年1月、内村の愛する娘ルツ子が死に、この埋葬と告別に対する内村の態度に矢内原はひどく打たれました。矢内原は同年3月22日に母を翌年10月1日には父をたて続けに失いました。両親の死が矢内原の心を悩ましました。「キリストを信じることなく世を去った人は救われないのでしょうか」。いたたまれなくなった矢内原はこの質問をたずさえて、夜一人で内村を訪れました。「私にもわからない」との内村の意外な答えと「信仰を続けて行くうちに答えは与えられる」とのアドバイスによって矢内原は人を頼らず、神へ直接つながることを教えられました。

世に出る

1917年、東京帝国大学を卒業した矢内原は家族を世話するため近くの新居浜銅山で事務の仕事につきました。同年、西永愛子と結婚し、家庭生活になぐさめを見い出しました。1920年には東京帝国大学植民地政策の教授になっていた新渡戸が国連の事務局次長に任命されたため、新渡戸の弟子として植民地政策を学んだ矢内原に助教授のポストが与えられました。そこで約2年半イギリス、ドイツ、アメリカ、フランスに留学しました。1923年3月26日、帰国してすぐ妻の愛子を失いました。愛する者を失った悲しみは矢内原の目を永遠の天へ向けました。翌年、友の強い勧めで矢内原は堀恵子と結婚しました。

福音の使徒となる

1930年3月28日内村鑑三が世を去ると、福音の使徒として立てられた7人の弟子、矢内原忠雄、藤井武(ふじいたけし)、畦上賢造(あぜがみけんぞう)、三谷隆正(みたにたかまさ)、金沢常雄(かなざわつねお)黒崎幸吉(くろざきこうきち)、塚本虎二(つかもととらじ)が内村の信仰の戦いを受け継ぐため記念講演会を開きました。その後も内村鑑三記念講演会は続けられ、矢内原の戦いの場となりました。しかし、早くも同年7月藤井武が世を去りました。矢内原は最も親しい信仰の友であり預言者であった藤井武の戦いを受け継ぐため、その後しばらくの間、彼の全集の刊行に心血を注ぎました。

学者としての戦い

学者として矢内原は当時学界の支配的前提であったマルクス主義との戦いを通して信仰と科学の問題に取り組みました。この問題に対し矢内原は次のような結論に達しました、

科学と信仰の問題は、次元が違うのであって、その間に断層があり、飛躍がある。科学には科学の世界があり、信仰には信仰の世界がある。それは別の世界です。しかし科学を勉強することによって、信仰のなかから迷信的な要素を除くことができる。また純粋に信仰することによって、科学に高潔な精神と希望を与えることができる。そういうことで、私はこの問題は解決されると、自分で思っています。

(全集 26:241-2)

1932年9月、満州調査旅行中、列車が盗賊のしゅうげきに会いました。ほとんどの乗客が物をうばわれ、害をこうむった中で矢内原の客室だけは被害を免れました。この事件を通して矢内原は神の臨在を経験し、「神は私の避け所、私の城、私の助け主」と呼びました。そして、神の恩恵を伝えるため『通信』を発行し始めました。

預言者としての戦い

1937年夏、日本が中国に戦争をしかけ、太平洋戦争の道をまっしぐらに進み始めたとき、「抗しがたい圧倒的な声が天より」(第一回山中湖畔集会記、全集26:538)矢内原に臨みました。彼は「骨をペンとし、血と汗をインキとして」(「此夏記」、1937年9月、全集26:592)、「国家の理想」を一気に仕上げ、『中央公論』の9月号に載せ、国の理想は正義と平和にあること、とりわけ弱い者の権利を強い者の侵害と圧迫から守る事がその実体であることを示しました。しかし、それは直ちに発禁削除処分となりました。同年10月1日の藤井武記念講演で語った「神の国」をのせた『通信』も政府の発禁処分にあいました。この「神の国」の終りで矢内原は次のように述べています、

今日は、虚偽の世において、我々のかくも愛したる日本の国の理想、あるいは理想を失った日本の葬りの席であります。私は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。どうぞ皆さん、もし私の申したことがおわかりになったならば、日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください。

『通信』1937年(昭和12)10月号

この一句が決め手となり、政府の圧力のもと東京帝国大学の教授会が矢内原に辞職をせまり、12月には辞表を提出せざるを得なくなりました。

日本の良心

1938年1月、45才で野に出た矢内原は新たに『嘉信(かしん)を創刊し、時局預言と聖書講義を通して真理の戦いに全身全霊を注ぎました。また翌1939年からは少数の青年に古典を講ずる「土曜学校」を開き、アウグスチヌスダンテミルトン、アダムスミスの著作に真理を学びました。一方たびたび政府の発禁処分や削除を受けた『嘉信』は1944年8月廃刊を勧告されました。矢内原は最後の望みをかけて次の手紙を警視長官に渡しました、

『嘉信』は形小なれども国民の良心なり、国の柱なり。『嘉信』を廃するは国民の良心をくつがえし、国の柱を除くに等し。『嘉信』は神により立てられたるものなれば、これを倒していかで国に善事を招かんや。

(全集26:113)

矢内原の最後の望みも空しく、当局はついに同年12月をもって『嘉信』の廃刊を命令しました。しかし矢内原は戦いを止めませんでした。「真理」は国法よりも大なりとの確信から、法律に触れることを恐れず1945年1月新たに『嘉信会報』を刊行し戦いを続けました。1945年8月15日、真理を敵にまわした日本軍は降伏しました。矢内原のように戦争の終りまで平和主義、非戦論を唱え、軍国主義に反対を守り貫いた人はほんのわずかしかいません。歴史学者の家永三郎は矢内原を「日本人の良心」と呼んでいます、
暗黒時代の中で、たとい現実に戦争を阻止する力を発揮しえなかったにせよ、敢然(かんぜん)と侵略戦争の推進に正面から反対した良心的な日本人が、少数ながら存在した事実のみがかろうじて一すじの救いの光として、私たちの心をなぐさめてくれるのである。 ・・・ 矢内原忠雄氏の個人雑誌は、そうした数少ない貴重な良心的活動の中でも、もっとも卓越した一つである。戦争勢力の暴虐(ぼうぎゃく)に対し憤(いきどお)りの念をいだきながら何一つ抵抗らしい抵抗もできず、空しく祖国の破滅(はめつ)を傍観(ぼうかん)するの他なかった私は、自己の無力を顧みて悔恨(ざんき)の念にさいなまれると同時に、このような勇気にみちた抵抗を最後まで継続した人物の存在を知ったときには、驚きと畏敬と、そして日本人の良心のつなぎとめられた事実に対するよろこびの念のわきあがるのを禁ずることができなかった。

(南原繁編「矢内原忠雄−信仰・学問・生涯」263-4)

福音と平和のために

敗戦後、日本に平和が訪れました。戦争の放棄をうたった日本国憲法が啓示的に与えられました。矢内原は再び『嘉信』と東大教授の職に戻りました。1951年には東大の総長になりました。戦争中の閉ざされた家庭集会から一転して、戦後は公開の集会と講演会を精力的にこなし、福音と平和のために残りの生涯をささげました。1961年12月25日、矢内原は68才でこの世の歩みを終えました。

2003年12月 あぶくま守行