キリストの自由

罪からの解放
人からの解放
自由と責任
自由と愛


罪からの解放

今日はキリストの自由について学びたいと思います。始めに聖書を開いて下さい。ヨハネによる福音書8章31節から36節までを読みたいと思います。

イエスはユダヤ人にいいました、「もしあなたたちが私の言葉に留まるなら、 私の本当の弟子です。そのときあなたたちは真理を知り、真理はあなたたちに自由を得させるでしょう」。

彼らは答えました、「私たちはアブラハムの子孫です。だれのどれいにもなっていません。なのになぜ、"あなたたちに自由を得させるでしょう" というのですか」。

イエスは彼らに答えました、「本当にあなたがたに言います、すべて罪を犯す人は罪のどれいです。どれいはいつまでも家に留まらず、自由の子はいつまでも家にいます。だから人の子があなたたちに自由を得させる時、あなたたちは本当に自由となります」。

今読みましたようにキリストは私たちを罪から解放して自由を得させます。私たちはキリストにあって罪を犯さない自由の子となる真理の霊を心に宿しましたヨハネ 14:17。真理の霊に従って歩むとき私たちは本当に自由ですガラテヤ 5:16。罪のくびきの重さにうめき、罪の法則の前に無力をさらけだす者にとってキリストの言葉は「解放の宣告」です、「喜びのおとずれ」です。たとえ体は罪に破れても、心はキリストの自由に向かって歩み始めました。

この罪から人を解放する「自由の霊」は悔い改め(メタノイア)によって与えられ詩編51:13、キリストの生きた人格に対する「信仰」によって与えられます。キリストの言葉に生きることが神の子としての自由への道です。矢内原忠雄は言います、

神の子が、子としての自由を私たちに与えられるので、私たちは真に自由となります。それは、イエスが父より聞いたすべての事を私たちに知らせる事によって、私たちは神に対して奴隷的盲従ではなく、知識による自由な服従をなし得るからです。それゆえに私たちも常にイエスの言葉に留まるならば、言葉の真理は私たちに自由を得させ、私たちを罪の支配より解放し、潔さに至る実を結ばせるのです。

(「日々のかて」 4月19日

人からの解放

このようにキリストの自由とは第一に罪からの解放ですが、第二にそれは人からの解放です。キリストの自由は信じる者を人への依存から解放し神のみに依り頼むものとします。それによってキリスト者は他人ばかりでなく自分にも依り頼まなくなります。これが信仰による独立です。独立を英語で言うと、インデペンデンス(independence)ですが、その語意は「依存しないこと」です。信仰による独立とは神と共に立つことであって、自分の力に依り頼んで孤立することではありません。キリストの自由は真の独立心をふるい起こし、神と共なる独立は真の自由の精神を養います(「日々のかて」 11月16日

人はキリストの自由を得て、神の権威にのみ依り頼むとき、もはや人間の権威に依存しません。人が聖霊によって生まれ変わったとき、その人は良心によって神の声を聞き、それに従って生きます。そして聖書の真理、とりわけキリストの言葉はその人の権威となります。それ以来、キリスト者は人間の作り上げた伝統とか法律とか教権とか信仰箇条とかの支配から解放されます。何が正しくて何が間違いなのか、何をすべきで何をしてはいけないのか、神は直接人に語りかけます。それを知らせるものは聖霊であり、確認させるものは良心と聖書です。ここで第一ヨハネの手紙2章27節を見ましょう。

しかしキリストから受けた聖油が留まっているので、あなたたちはだれからも教えてもらう必要がありません。聖油があなたたちにすべてを教えます。それは真理であり、そこに偽りはありません。

以前「エレミアの新しい契約」でもお話しましたように、神は人の心に律法を記し、神自らが直接人を教え導きます。

ですからカトリックの人々がローマ法王に絶対的権威を求めるのは間違っています。エホバの証人がニューヨークの統治体の命令に絶対的に服従するのは誤りです。彼らは何者ですか、「罪の支配のもとに売られた人間」に過ぎないではありませんか。あざむかれてはなりません、神聖な権威はバチカン(カトリック本部)ではなく、聖霊によって教えられた心の律法にあります。神の命令はベテル(エホバの証人本部)からではなく、良心と聖書が証するキリストから与えられます。

ルターはキリストの信仰による自由によってカトリックの絶対的権威に対抗して一人神と共に立ちました。彼は「95ヶ条の論題」を大学の門に掲示して、カトリックの間違いとだらくを問いただしました。カトリックはルターを破門しましたけれど、それは神の命令でなく、組織と制度によって宗教的権威を作り上げた人間の利害から出たものでした。事実、ルターの勇気ある戦いによってプロテスタントが生まれ、今日私たちは信仰の自由の恩恵に与っているのです。カントは「啓もうとは何か」の中でこの世の宗教的権威、つまり法王や神父や牧師に物事の判断を決めてもらったり、何が善いことで何が悪いことなのかを、何をすべきで何をしてはいけないのかの権威を仰ぐことは、人を「甘えの構造」に止まらせ、人格の独立と理性の訓練を妨げるものであると言っています。神との交わりとによって聖霊の教えを仰ぎ、良心によって物事を判断し、善悪を決定し、失敗と誤りを恐れず勇気を持って自由に行動することが求められています。

自由と責任

自由は人格的存在の特権です。人格とは意志の自由を行使する責任の主体です。自由には責任が伴います、義に対する従順があります。自由はわがままと違います、無責任ではありません、放縦(ほうじゅう)とは対立する概念です。「従順のない自由は混乱であり、自由のない従順は奴隷である」と、かつてアメリカに信仰の自由の国を建てようと試みたウィリアム・ペンは言っています。自由を行使するとき、そこに責任と真理に対する従順がなければ、その行為は自分の欲を満たし他人を自己の道具にする身勝手な罪の行為となり、以前にも増してその人を「罪の奴隷」にしてしまいます。せっかくキリストにより罪から解放されても、心にキリストを迎え入れて従順にならなければ、つまりキリストの言葉に従って生きなければ、サタンはさらにひどい七つの悪霊と共にその人に再び忍び込み、その人を以前よりもさらにひどい罪のとりこにしてしまいますルカ 7:13-14。ですからキリストを心に迎え入れ、サタンに打ち勝って、神の子の自由を得なければなりません。キリストの言葉に従って生き、神の義に対する従順によって聖(きよ)さと永遠の命の実を結ばなければ、本当の自由とは言えませんローマ 6:22

自由と愛

ここまでは「解放」と「責任」いう自由の消極的側面を見てきました。しかし自由の本領はその積極的側面、行動的内容にあります。それは愛です。自由の目的は新しい創造の活動としての愛の奉仕です。律法にしばられず、罪におちいらず、この世に支配されないで、自由は真理を見出し、義を立て、善を行い、平和を作り出し、愛の働きを生みます。

キリストの自由とは人を愛する自由です。しかし人を自由に愛するためには訓練が必要です。画家がキャンバスに真実を視覚的に自由に表現できるまでには、長い修練をへて素材と道具と表現方法に精通し、そして構想の霊感(インスピレーション)を得なければなりません。演奏者が、人のたましいを揺り動かす自由の音楽を奏でるためには、やはり長い訓練を通して楽譜と楽器と音律に精通し、そして楽想(モティーフ)を得なければなりません。キリスト者もまた同じです。キリストの言葉に従って生き、それに精通し成熟した「霊の大人」となり、そして聖霊の働きを受けなければ、自由に「愛」を実行することはできないのです。

自由の目的は救いの完成、人格の完成、宇宙の完成にあります。そして独立した自由な人格の愛の交わりのなかにエクレシアは完成します。キリストの自由は私たちに真の愛を創り出すことによって神の子の人格を完成し、その愛の交わりを通して神の国を完成することをお話しました。

1999/2/7   講述
1999/6/10 一部削除


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