3月1日に行われた59期卒業式。20人で入学した彼らは本当に紆余曲折波乱万丈な3年間を経て卒業生名簿に全員の名前を連ねることができました。
当日、式に参加できない子もいました。もちろん願わくば全員の姿がそこにあってほしかったですが、帳尻が合うことが卒業の意味ではありません。卒業は愛農の終了を意味するものではありませんし、人生の節々で「自分が活きる」選択をしていく過程の一つです。
僕は小さくも頑丈に生きていくことが大事だと思っています。そのために愛農の生活は、「お互いがチカラをつける」こと、「他者を生きていく覚悟をする」ことのためにあるといってもいいと思います。それは「自分一人では生きられない」ことを知り「あなたの力が必要だ」と心から思うこと、ともいえるかもしれません。そこに職員も生徒も当然関係ありません。
愛農の生活は足りないことだらけです。あえてそうしている面(携帯とかネットとか)もありますが、そもそも設備も人も色々足りていない。そのうえ行事は多いし、農場は広い。けして胸を張って言える話ではありません。でも、だからこそどうしても生徒の力、保護者の力、卒業生の力を借りながら進むしかない。我が家の子育てだって生徒にたくさん遊んでもらって成立しています。
全てが不自由なく充足している状態ではないから「自分の領域」に閉じこもれない。結果として有機的に繋がっていくほかないのです。この「足りなさ」が愛農を豊かな場所にしていくのではないかと僕は考えています。自分のモノを共有する「持出し」と他人のモノを共有する「招き入れ」が、全寮制で、農業で、聖書で、ごはんで、日々の暮らしで培われる。「頼られるタイプじゃない」のに、頼られてしまって、なんだか色々できるひとになっちゃった。「なんでも自分で出来る」と思ってた人がなりふり構わず周りに頼りまくって、結果人徳がついてきた。「音楽なんてできない」と思ってた人がうっかりバンドに連れ込まれて人前で演奏するようになった。愛農でよく見かける光景です。
これは愛農がわざとそうしているだけではなく、そんな足りない暮らしを繰り返す中で愛農がそういう場所になっていったんだと思います。でも総じてそれをみんな「豊か」であると感じる。「愛農らしい」と感じる。それを誇りに感じる。それが世代を超えて「愛農」が繋がる理由だろうと思うのです。
暮らしが続き文化は醸造される。1年生はその文化を使って歩み、2年生になると文化を使いながら醸造を始め、3年生は文化を醸造して、後輩に愛農を譲る。そうして59期も卒業していってくれました。
ありがとう!そして卒業おめでとう!
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