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憲法記念講演会に高橋源一郎さん来る!

6月1日の憲法記念講演会に今年は高橋源一郎さんに来て頂きました。

「憲法の話聞きたくないでしょ?」「90分の講演で集中力持たないよね」「壇上で話すの嫌いなんだよ」。そうやって始まった講演会は生徒との応答で作るゼミ形式。「なぜ国が学校を作るときは小学校と大学から作る(中学校と高校を作らない)のか」「人材という言葉」「大学とは」「偉人の言葉は何故弟子が書き残したものしかないのか」「先生と生徒が無言の90分授業」「面接で貴校という言葉を連発する学生の謎」などなどトピックは盛りだくさん。

憲法の話を聴けると思っていた面々からすると面食らったカタチ(直前の打ち合わせでは90分全部質問するって言われてました(笑))。でも具体的な話を一方的に聴いて吸収することだけに慣れていたことに気づきます。良い話は応答することで深まり、知らないことがはっきりして、さらに問答が続きます。そう言えば聖書にも禅問答にもそういった場面が沢山あります。なるほど。

「偉人の言葉は何故弟子が書き残したものしかないのか」というトピックの高橋さんの解釈は「偉人が直接書いた文章は聖典になってしまい、解釈の余地がない。弟子が書くから解釈に幅が出て、後から来る弟子でもそれを超える思考できる余地が残る」ということ。つまり良い本は読むたびに学びがあり、2回読んでも何も感じない本はそもそも読む必要が無いということだとか。

憲法の話を聴く前に自分が憲法についてどれだけ思考したかを思い返しました。誰かが言った話を、その誰かに乗っかっただけの解釈になってやしないか。新しい他人の解釈を乗せようとしているだけではないか。高名な誰々さんがそう言っていた、なんていうように。もちろんあらゆる知識は借り物がほとんどですが、思考した跡があることで体温と質量を伴う「言葉」になります。高橋さんは「作家は言葉が伝わりにくいことを知っているから満足ラインが低い」と言います。だからこそ「何とかして少しでも伝えたい」とも。【思考した跡がある言葉で語る】とは、ほとんど伝わらない想いがほんの少しでも伝わることに一縷の望みをかけることになるのではないでしょうか。「わからない」で済ますことのなんと多いことかとわが身を振り返ります。

高橋さんは最後に可能な限り質問に答えてくれました。というか職員・生徒関係なしに指名制です(最初の打ち合わせどおり)。「本当は大学のゼミでも50人全員から質問をもらう」ということ。高橋さんが以前教鞭をとっていた明治学院大学では「 先生と生徒が無言の90分授業」を自分の持つ授業で最初にするそうです。90分間の無言の授業の後、生徒に「なぜ何も発言しなかったのか」と聴くと「何か指示があると思った」という答えが返ってきたそうな。思考と応答と実践と。人間は随分多くの時間を学校で過ごしますが、必要に駆られて思考することがどれほどあったでしょうか。

朝早く電車で鎌倉を出発。愛農でわくわくしながら講演を2時間。3時半の電車で帰路に着いた高橋さん。生徒の「天才ですか」という質問に「天才にあこがれる努力の才能があります」と一言。飄々と改札をくぐっていったその背中は、問題に対する正解が歩いているのではなく、思考と努力の跡が歩いているのだと、見送りながら思いました。「追いかけたい背中に出会うことが本当に幸せなことだ」という講演の中の言葉が、ずっと耳に残ります。

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