10月29日(土)、愛農高校では宗教改革記念講演会として日本基督教団名古屋堀川伝道所の島しづこ牧師をお招きしてお話しをお聞きしました。島牧師は30年前に小谷純一氏にお会いして以来、愛農との繋がりをいただいている方ですが、重度の障がいをお持ちの娘さんを育てられ、施設を立ち上げその中心として活動されてきた方です。
島牧師がお話ししてくださったのは、障がい者と呼ばれる方々との繋がりから、人間そのものをどう見るか?という価値判断についてでした。障がい者といわれる方を社会は価値がない存在として扱うかもしれない。しかし、そういった側面だけでない出来事に出合ってきた、ということでした。
「ハンディをもった人はハンディをもったままで善き存在として創られている。それは私たちが助け合うためなのだ、と。」障がい者と呼ばれている方からこそ助けられ、支えられてきた、という話。「こんな人、生きていても幸せなんかね」とあからさまに言う人もおり、相模原やまゆり園でもこの人たちは生きている価値がない、という見方によって事件が引き起こされたこと。しかし、この人たちと一緒に生きることによって、私たちがいかに生きるべきかを教えてもらった存在であった、と現場から経験した事柄を強く語ってくださいました。同時に他人と一緒に暮らして生きるということの困難さは、時に自らのうちにある暴力性といかに向き合うかという課題が残り、そういったときは担当を変わってもらうか休む、という具体的な行動の大切さも教えていただきました。
島牧師はそのことから宗教改革でなされた意義についても言及をいただきました。筆者の理解では、宗教改革とは免罪符に代表されるように、の「救い」というものを自らの業績や力によって達成する在り方でした。その力によってなされる救いの枠の外に排除されている人たちに目を向けない在り方に疑問を投げかける精神であると筆者は感じました。
私は、私自身をどう見ているか?そして人をどのようなものさしで見ているか?について問われたように感じました。価値があるから生きていていい、という自己受容と他者受容の在り方ではなく、生きていることそのものが大事なんだ、と心の底から信頼できるようで在りたい。人のうちにも己のうちにも見受ける「弱さ」や「障がい」と思えるものを排除しない心の構え方を深めたいと思わされた時間でした。
[松田翼]