資料請求

韓国からの研修生の朝拝。

ヒャンユという24歳の女の子が韓国から2025年1月~3月の3カ月愛農高校に研修生として滞在しました。彼女は韓国の姉妹校プルム農業学校の出身で、お父さんを数年前に亡くし、お父さんが残したブドウを育てる農家。色んな人と出会い、色んな話をし、たくさん考え、たくさんの感情と出会ったんだと思います。

彼女は愛農を去る直前に、その想いを朝拝で伝えてくれました。その言葉があまりに素朴で、あまりに雄弁に彼女の人生を語っていました。それが僕らの心を強く揺さぶりました。本人の許可をもらい、今回長文ですが掲載します。

隣の国からいろんな過去を背負ってきた彼女の言葉を、愛農高校を通じて共有したいと思います。

どんな話ができるだろうか。

難しかったですが、自分の話をしてほしいという校長先生の言葉を信じて私の話をしてみます。

まず、私の話をするためには両親の話からします。

両親は神学大学で出会いました。 科は違いましたが、ボランティアサークルで出会って友達になったそうです。

牧師の勉強をしていたお父さんは悩んでいたそうです

神様の前で一番堂々と生きられる人生は何だろうか。 多分それは土の上で汗を流し, 農業をすること。

そこでソウル出身、都会の男性のお父さんは就農を決意し、お母さんと一緒に農業の先輩たちに会いに全国旅をしました。

そして、正農会というところを知り、そこに行ったら全国で会った尊敬する年配の方々が皆そこに集まっていたそうです。

母と父は大学を卒業して、結婚をして、就農をしました。

正農会のお年寄りの中で有機農のブドウ農家で3年間作男として働きながら仕事を学び、今私の故郷「サンジュ」というところに来ました。

何も持たず, 知り合いも誰もいない田舎に入って農業をするのは簡単ではありませんでした。

春から秋までずっと畑で働き、冬には大工の仕事を学びながら家を建てに通ったそうです。

その時学んだ技術で、父は今の家を自分で建てました。

そして私が生まれました。

記憶があってからはいつも自然の中でごろごろする記憶です。 ぶどう畑で、鶏、猫、犬と走り回っていた幼い記憶。

小学校に入ってハングルを学んで書いた詩を読んでみます。

「私は小鳥、私を取り囲む山は巣、神は母鳥」

小学校は5年生の時に行くことをやめました。

両親が就農運動をして、近所に就職する人たちの子供たちが増えました。

これまで学校は楽しかったので行ってきましたが、ホームスクーリングする友達と学校の外の山や野原で遊ぶのがもっと楽しくなって小学校を行くのはやめました。

父は経済の勉強のために私に卵の商売をさせました。

お父さんと一緒に新しい鶏小屋を作り、新しいひよこを200羽連れてきました。

健康に育てるために家から出てくる農副産物で餌を作り、毎朝ブドウ畑に放牧しました。

卵箱に‘香油卵’とかわいい絵を描いて、近所の人たちに自転車で配達してあげました。

後で計算してみたら結局破産しましたが。 子供の楽しい挑戦でした。

私が動物が好きで動物の友達が増えました。

犬、猫、鶏は基本、ヤギん5匹と黒豚2匹まで。 動物は私の担当でした。

管理するのが面倒で怠けたとき、お父さんが言いました。 「ヒャンユ。 「愛するということは責任を持つことだ」

その時、愛の重さと責任を深く知るようになりました。

正農会のお年寄りの方がやっている学校に行きました。

「ロードスクール」の形で、建物の中ではなく現場に直接行って勉強する学校です。

原子力発電所に反対する現場で一緒に脱原発を叫びました。

済州島に米軍基地を作ろうとする所に行って生態環境を守るために平和行進をしました。

大量の電気を都市に送るために田舎に送電塔を建て、地域住民を苦しめる現場に行って一緒に生活しながら反対しました。

苦しんでいる隣人の声を現場で聞きながら一緒に連帯し、抵抗する貴重な時間でした。

両親の活動領域が有機農業、就農、農村地域に広がり、私の人生の領域もブドウ畑、就職を夢見るお客さん迎え、農村地域に、どんどん広がりました。

両親が隣人たちと力を合わせて村に小さな図書館を作りました。

私の家族は家では寝るだけで、すべての時間をブドウ畑と図書館で過ごしました。

小さな小さな田舎町で隣人たちと力を合わせて文化空間を作り、各自の才能を寄付して文化活動を作り、その空間を運営することがとても楽しくて、ドキドキしました。

そして、プルム学校に入学しました。

3年間、水を得た魚のように、体が10個のように過ごしました。

大小の苦しみが当然ありましたが、すべて必要でありがたい学びだらけでした。

家庭で生活しながら自然だったこと。

例えば、有機農業、無教会主義、農村共同体の大切さを学校で頭と胸と体で学びながら戦慄したりもしました。

しかし、学びによって理想と信念と価値観がますます肥大化しました。

その時、父親は「お言葉が肉体されて私たちに来られたイエス様」の話をしてくれました。

聖書に漂っていた言葉が体になってイエス様になって来られ、イエス様は一番低いところで自分の人生を通じて愛を分かち合ったと。

その時から私もただの言葉と考えではなく、体で生きたいという決心をしました。

私の体が理想についていけなくて生じる隙間に苦しんだりもしました。

その当時は夏に蚊を殺すこともできませんでした。 一生懸命生きていく蚊を殺すのが申し訳なくてですね。

プルムは卒業する時に卒業論文を書かなければなりません。

私は「農村共同体と社会的資本」というテーマを勉強しました。

その前まではやりたい夢のかけらが秩序なく散らかっていて、これから何からするか選ぶのが難しかったです。

私は田舎が好きで、人々と合唱すること、演劇すること、運動すること、本を読んで分かち合うこと、手づくりすること、一緒に勉強することが好きでした。

和やかな家庭を作りたかったし、医学を勉強して他の人を治療してあげたかったし、ブドウ畑で教育と世話もしたかったし、祭りのように面白い活動もしたかったし、カフェのような人が集まる素敵な空間も作りたかったし、そうしながらこの世に必要なこともしたかったんです。

これを全部やりながら生きたかったんです。

論文の勉強をしながら私が興味がある農村という所は

 1.人々が生きていく生活場所だ。

2。その生活場所には教育、医療、福祉、文化など生活を営むための色々なことが必要だ。

3. 今の農村は都市に比べてそのインフラが劣悪だ。

4. 私は田舎でやりたいことを全部しながら生きる。

5. 結局、農村でいろんな活動を具体的にすれば、農村に教育、医療、福祉、文化などいろんなインフラが自然にできる

私の心の深いところで望む夢と世の中に必要なことの地点がかみ合う瞬間でした。

目標ができてから、これからの人生の選択が怖くなくなりました。

卒業をして18歳にはまず家に帰ってブドウ農作業を手伝い、両親と地域活動を一緒にしました。

村の小さな図書館で放課後保育学校をしながら子供たちに会いました。 

代替医学に興味があり、アロマセラピーの勉強会を作りました。

幼い頃、大きく病気になったことがあって、西洋医学ではなく東洋医学、代替医学を少しずつ学んできました。

アロマテラピーは植物の治癒力が込められたアロマオイルを利用しますが、アロマオイルは私の名前です。

19歳にはプルム学校があるホンドン村に留学しました。

ホンドン村は私が夢見る村の立派な先輩の村です。

社会的農業に興味があって、農場で教育が行われる教育農場と社会的脆弱階層の世話をするケア農場でそれぞれ働きました。

昼には働いて夜には毎日勉強会に参加しながらホンドン村を習いました。

ホンドン村の丈夫で堅固な農村共同体の中で、学問を止めない力と持続する力を学びました。

20歳には「大邱」という都市にデザインを学びに住みました。

農村で面白い活動を作ると、人々を募集できるポスターを作りたくなったんですよ。

農村の美しさを表現できる農的なデザインがしたかったです。

大学にも行かず就職もしなかった私のような青年を支援してくれる立派な制度があって感謝しました。

塾を修了して、韓国で一番地域の特色がはっきりしているところだと思う「済州島」に発ちました。

持っているものをすべて共有する無所有共同体で有機農作業をしながらカフェを運営し、そのカフェで勉強会、地域活動など様々な文化活動を行う所でした。

いつか私もブドウ畑の隣に複合文化空間を作りたかったです。

私はその人たちにご飯を作ってあげて、カフェの運営を手伝ったおかげで海辺の前の小さな家を得て生活することができました。

21歳には「釜山」に行きました。 田舎をもっとよく知るために都市の地域活動も気になりました。

釜山は国際映画祭が有名な映画の都市です。 そこで「国際子供青少年映画祭」で働きました。

理由は二つ。 映画祭のような祭りは地域に多くの人を集める大きな力があり、私は演劇映画など演技するのが好きだからでした。

大学に行かず、一ヶ所でずっと働かず、他の地域を回りながら学ぶ時間でしたが、当てにならないと感じませんでした。

夢という家のために材料を拾って設計図を描く時間だと思いました。

たまには故郷で頑張っている両親の知らせをを聞く度に早くそばに帰って一緒に働きたくて焦りましたが。

時間はまだたくさんあると思いました。

そして父が肝臓がん末期と診断されました。

元々肝臓が悪くてお酒も飲まなかったです。 しかし、ある瞬間からブドウ畑より地域に奉仕する時間が増え、休むことなく働いてしまい、いつも疲れていたのが原因でした。

闘病生活の最後の頃、父は死ぬのが怖くないと言いました。

神様の前に自分を任せたと、これからのすべては神様の意思だと言いました。

以前までのお父さんが言ってくれる言葉はいつも私を悟らせていたのですが、この言葉だけは実はまだ理解できません。 どうしてこのすべてが神様の意思なのでしょうか?

父が亡くなり、父を愛し尊敬していただけに、私の中の多くのことも死んでしまった感じを受けました。

父は私の人生の方向性であり、夢であり、私の中の小さなイエス様でした。

そんな存在の喪失を受け入れる力が私にはありませんでした。

以前に私が夢見たすべての夢と人生の意志を喪失して拒否するようになりました。

何もしたくなかったが、ブドウ畑の木々は自然の摂理通りに育ち続けます。

父が熱心に面倒を見ていた土と木を放っておくことができず、母と当時結婚を約束した婚約者とブドウ農業をしました。

父が亡くなる直前まで奉仕していた村の活動を止めることができず、小さな図書館の仕事を続けました。

私たちの家庭は倒れたが、父が周辺に撒いておいた愛が戻ってきて、いつも私たちを助けてくれました。

その具体的な愛は本当に隣人を通じて私たちにご飯を食べさせてくれて、仕事を手伝ってくれて残った私たちの家庭を生かせました。

感謝の一方で、すべてが父の不在を思い出させて認められない心でずっと痛かったです。

そして去年の夏、北海道韓日交流会に行きました。

知らない場所、言語、人々と出会い、非日常的な感覚からくる解放感が私を呼吸させました。

交流会が終わって家に帰る途中に泣きじゃくりました。 心が暗くなって、二度と明るく笑えず、幸せになれないと思っていました。

しかし、なくなったと思っていた以前の肯定的な姿の私に再び会えて驚きました。

その感覚を忘れることができなくてここにまた来るようになりました。 実は逃げてきました。

休みなく仕事で飽きたブドウ畑と、結婚に対する夢も消え、結局別れてしまった婚約者と、最後までそばを離れるのが申し訳なかった母親と、まだ受け入れたくない父親の不在と、死んでいく私の心まで。 そのすべてから逃げてきました。

新しいここで新しい人々に会って新しい言語を学びました。

新しく学んだ言語では「幸せです」と言えるようになりました。

韓国語ではそれを言うのが本当に難しかったですが、日本語では簡単でした。 すごくたくさん使いました。

元々私の中にあった言語が死に、新しい言語が必要だったようです。

ところが、新しさの中で学生たちと先生たちの人生をそばで覗き見たが、結局懐かしい風景でした。

ここの人生が、失われた懐かしい私の夢のような場所でした。

2023年度、父が亡くなった年の1月1日の初日、まだ何も知らなかった時に、ダイアリーの表紙に書いた文章があります。

「わざとでも動かなければならない。 揺れている間は混乱するだろうが、簸るように揺れている間、しいなは飛んでいき、中身だけが残る」

どうやら今は人生全体が揺れている時期のようです。 私の外側を包んでいたしいなが飛んでいく途中なので、このように目まいがするのでしょう。 どれが中身なのかまだはっきり分かりません。

これからの夢を再び確実に見つけたわけでもありません。 ところが、一度戻ってまた生きてみる力を得ました。

去年を終えて冬が来た時、また春が来たらすぐに今年はどう生きるべきか、力も意志も夢もないのに、夢がなかったことが初めてなので何をすればいいのか分からない漠然とした感じが難しかったです。

でも、とりあえず今年を生き抜く力ができたんです。 ありがとうございます。 実はここに来て私が努力したことはないようです。 エノンが持つ、エノンの家族が持つ力の中で、私も力を得ました。 ありがとうございます。

最後に私が好きな韓国の詩の一部を分けて終わります。

「白石」という昔の韓国の詩人の詩「白い風の壁がある」です

 この白い風の壁に

私の寂しい顔を見て

これらの文字が通り過ぎる

– 私はこの世界で貧しくて孤独で高く寂しいので生きていくように生まれました。

そしてこの世界を生きる

私の胸はあまりにも熱いものでほっそりしたもので、愛で悲しみでいっぱいです。

そして今回は私を慰めるように私を泣くように

目をつけて拳をして、これらの文字が通り過ぎる

– 天がこの世界を明日敵に彼が最も貴重で愛するものはすべて

貧しくて孤独で高く寂しいので、いつも溢れる愛と悲しみの中に生きるように作られたのだ。

生まれたばかりの月とかごの花と、きらめきとロバがそうであるように