楠本紗也可(52期) 私と鶏まん

2017年度 校内意見発表
私と鶏まん
3年 楠本紗也可(52期)


廃鶏をもっとたくさんの人においしく食べてもらいたい。そんな想いから生まれたのが、愛農高校の廃鶏を使って作った鶏まんだった。廃鶏とは、卵を産まなくなり、産業廃棄物として扱われる鶏のことだ。

 

私が廃鶏の存在を知ったのは、愛農高校に入学してからだった。1年生の時、必ず周ってくる鶏の解体実習で、元気に鳴いている鶏とよく研がれた包丁を両手に持ち、ただ怖くて何もすることができずに涙を流したことを、今でもよく覚えている。数回目で少し慣れてきた解体の実習でも、びくびくしながら弱弱しく首に包丁を入れ、一発では切り切れずに鶏を苦しめてしまった時もあった。「感情が入ってびくびくしていたら、鶏にもそれが伝わってしまうから、自分にとっても鶏にとっても、無心でやるのが一番だよ。」先輩か先生かに言われた言葉がいまだに心に残っている。あれから何度も解体の現場に立ってきた今、私は静かに心を落ち着かせ、無心になって一羽一羽の首に力強く包丁を入れていく。

 

 愛農で飼育している鶏は、もみじというブランド名の卵肉兼用種で、卵を生むだけでなく、お肉としても扱える品種だ。しかし私たちが普段食べているのは、肉にするためだけに短期間で大きくなるよう品種改良され、丸々と太らされたブロイラーのお肉だ。

 

一年生の時の実習で育てたブロイラーは、二カ月の間にものすごい速さで、ひよこから丸々と太った大きな鶏の姿に変わり、細い足で自分の体重を支えるのもままならない。自分の体重を支えるのに精一杯なブロイラーと、元気に動き回り、バサバサと飛ぶ愛農高校の鶏。もちろんお肉自体にも大きな違いがあった。色が薄く、大きくて柔らかいお肉を素手でも骨から外すことのできるブロイラーに比べ、廃鶏のお肉は色が濃く、脂身が少なく引き締まっていてかたいため、骨から外すのに力が要り、手間もかかる。それに、廃鶏からとれる肉の量は、ブロイラーのわずか半分ほどだ。どう考えてもブロイラーのほうが効率がいいに決まっている。しかし私は、愛農に来て初めて食べた廃鶏のおいしさに感動した。かたいけれど、噛めば噛むほど肉自体の濃い味が出てきて、あの元気な鶏の生命力そのものを、身を通して感じる。まさにホンモノの味がするのだ。

 

 私は、愛農高校に入って農に触れたことで、この廃鶏の存在を知り、あまりにもおいしいお肉の味に感動した。だとすると、世の中のほとんどの人はこの廃鶏のお肉を食べることもなく、廃鶏の存在すら知らないのではないだろうか。

 

 廃鶏からとれる肉の量の少なさと手間を考えると、それが世に出回らないのは当然のことなのかもしれない。そう思うと同時に、効率が悪いがゆえに本当によいものが誰の目にも止まらず、価値のないものとして扱われるという現実に、切なさを感じた。
毎日卵を産み、元気に動き回る愛農高校の鶏たち。時にはバサバサと背中に飛び乗ってくることもあり、鶏舎から脱走してすばしっこく逃げ回ることもある。鶏が鶏らしく本来あるべき姿で生きている。私は日々鶏たちと接することで、そう感じてきた。そんな廃鶏のお肉のおいしさに惚れ込んでいたわたしは、廃鶏をもっとたくさんの人においしくたべてもらいたいと思うようになった。そして、月に一回生徒たちと一緒にカフェを開いておられる方たちによる協力のもと、廃鶏をおいしく食べるにはどうしたらよいかを考えた。

 

まずそのまま食べるにはかたすぎるので、食べ易いミンチにした。さらに廃鶏特有のあのうま味を逃がさずしっかり味わうことが出来、パサつきも目立たないようにしたい。そこで、具材をふわふわの生地で包んでうま味を全て封じ込め、廃鶏のおいしさを丸ごと味わうことができる鶏まんに至った。そして私はその方たちに背中を押され、手渡された「ほかほか中華まん」という名の本と共に鶏まんづくりに踏み出した。失敗しながらも何度か試作を重ね、様々な人の協力のもと出来上がった鶏まんたちをカフェに来た人たちに食べてもらうことができた。

 

たくさんの人がおいしいと言って食べてくれ、完売できた時の喜びを忘れることはできない。本来なら価値のないものとして粗末に扱われるはずだった廃鶏のお肉。これは効率が悪いということだけで価値がないとされ続けられるべきものではない。どんなに効率が悪くても世に出回っていなくても、よく見るとそこにはもっと大切にしなければならないホンモノが隠されていることがある。そんなことを私は廃鶏から教わった。そのことに気づかされた私がするべきこと。それは見落とされている本当の価値を伝え、広めていくこと。そしてたくさんの人のもとへ大切に届けること。それこそが、命をいただくということへの最大の礼儀であり、恩返しになるのだと思う。

 

 生産するところから始まり、解体してお肉にし、さらに加工までして販売する。到底簡単にできるようなことではない。だが、どんなに価値があるものだと確信していようと、それが世に出回らず、粗末に扱われ続けてしまっては意味がない。数少ない幻の鶏まんではなく、たくさんの人に共感され、伝えられ、運ばれ続けていくことができて初めてホンモノの鶏まんになるのだ。

 

 目に見えなくなってしまっているたくさんの命。私たち生産者にはその命を価値のあるものとしてたくさんの人のもとへ大切に運び、循環させていく義務がある。ホンモノにまつわるストーリー、ホンモノを届けたい想いを伝えること、そして流通させ続けるための生産効率を考えることもまた義務だと思う。
 ホンモノをホンモノにするため、私はこれからも歩み続けていく。