馬淵一輝(54期) 変わった話

2017年度 校内意見発表
変わった話
1年 馬淵一輝(54期)


死んだ人を生きかえらせ、病人をいやし、海をわり、五千人以上の人を五つのパンと二匹の魚で満腹にする。聖書ではそのようなことが書かれています。たいていの人はそんな事はありえない。創作マンガ、特撮アニメ、三流小説の見すぎだろうなどと思ってしまいます。ちょっと前の自分もそういう風に思っていました。昔の偉人で「聖書さえあれば、この世の世界のすべての書物なんていらない」と言った。という話がありますが、僕には到底信じられる物ではありませんでした。

 

この作文を書く前は聖書のことをうさん臭いインチキな本だと思っていました。そんなある日の事僕はある発見をします。それは「聖書の教科書」の一文でした。そこにはこう書き記されています。「福音書がまとめられた意図は実際に起こった事を史実に伝えることにはなかったからです。そこには福音書の著者たちが、私たちに伝えようとした深いメッセージがあるのです。」この一文を読み終えない内に僕は聖書に飛び付いて、一文一説をなめ回すかのように何回も読み返していくと見れば見る内にいろいろなメッセ―ジが泉のようにわき出て来ました。みんなで食べ物を分かち合う事の大切さ、真に人を愛する事ふむふむ、なるほどこれが何世紀にも渡って人に愛される聖書だったかと一人で納得していました。

 

さらには、聖書にはマタイによる福音書にある『施しをするときには、断食をするときには』等は人に見せつけるように祈ったり、断食して、自己満足で終わらせるのではなく、隠れるようにして神様にだけ見てもらえるようにしなさい。といった内容が書かれています。これなら世界中の書物、法律本も歴史書もなくなってしまっても聖書さえあれば、最低限のモラルが守れるだろう。世界中が聖書を手にした、キリスト教信者だらけになると思うが。

 

そして聖書を一文一節一章を読み進めていくと、こんなことわざを見つけました。「目には目を」が『旧約聖書』と『新約聖書』に載っていました。この言葉ハムラビ法典のことわざではないか?どうしてこんな言葉が聖書に載っているのだろうとおどろき、その意味を知りたくなり、森館の本をあさって見ると新約聖書の方では「復讐をするな。きっと神様がかわりに仕返しをしてくれるさ。」という言葉であり、旧約聖書では「仕返しをしてもいいけど、相手にされた事よりそれ以上に返してはいけない。」という意味である。旧約聖書が書かれた時代は、治安も警察もてんでなく、自分がやられたら、半殺し、全殺し、みな殺しでもなんでもありだったかららしい。ちなみに元となったハンムラビ法典では、「悪い事をしたら自分にいつか返ってくるよ。」という意味でした。

つまり聖書は、復讐しなく、争わなく、平和を目指している。うさん臭くもなく、インチキ本でもなく、人類が生み出した、発明品の中でもベスト10に入るくらいのすばらしい物だとわかりました。ちなみにベスト1は火だ。
が、しかし、宗教も万全で完全で最善で健全ではありませんでした。従軍牧師に宗教戦争、十字軍いろいろな戦いを引き起こし、時にはキリスト教徒同志で殺しあって血で血を洗います。あのトラファルガー海戦(イギリスとスペインが戦った。)での軍艦(ここではガレオン船などの帆船をさす。)にですら神父が乗っていました。

 

さらに黒人奴隷を都合よく働かせる為に聖書を利用したり。しかしその事をさし引いてもキリスト教は人類の英知だと思います。
しかし僕は聖書を宗教というレッテルを貼り「宗教=危ない、インチキ、ペテン」という方程式を作り、その色メガネでしか聖書を読む事ができませんでした。自分はテストの点や学歴でしかも物を見れない奴は、人のを見る事ができないレッテル貼り野郎だなと心の中でバカにしていました。たしかに学歴は瞬時にその人が有能かそうでないかを見分ける事ができますが、それは外側のある一面しか見ることはできません。それを自分でしたら人としておしまいだなと思っていました。僕はそれをしてしまい深い自責の念にかられてしまいました。

 

するといつかの直木先生の言葉を思い出しました。「君たちはね、汚れている。うん。社会のね。汚れに染まっちゃったんだよ、愛農に来る前に。」その言葉を聞いてハッとしました。それこそ自分に必要な言葉です。いつのまにか気付かない内に、学歴社会、受験戦争、内申点、よってたかって僕をだんだん物欲主義に変えていきました。そして神を信じない人間になりました。

 

しかし、聖書では、ほかの神を信じている人、神を信じない人の為に祈れと書いてあります。その部分を読んでなぜだか僕は心が洗われ汚れが少し落ち心が少し軽くなるような、感覚を覚えました。すると僕はまた、直木先生の言葉を思い出しました。「神様はね心のカガミがくもっているいると見えないんだよ。ほらだから君たちには見えない。だから磨く必要があるんだよ。うん。」僕の心のカガミはまだまだ汚れていて、神様の声一つ、髪の毛一本片足さえ見えてすらいません。しかしこの愛農の三年間で磨いている内にもしかしたら見えるかもしれません。だから僕は聖書で心をみがきたいと思います。これが僕のかわった話です。